第二十四部 濡れた外套と、寝台の上の囮の話 ② 濡れた外套
黒帆は離れなかった。
距離はある。
接舷を失敗したあと、向こうは無理に近づいてこない。
だが、船尾の斜め後ろに張りつくようにして、こちらの動きを見ている。
追っているというより、待っている。
こちらがもう一度鈍る瞬間を。
風が変わる瞬間を。
内側から、また誰かが船を止める瞬間を。
リヴィアは甲板から戻ると、濡れた外套を脱ぎ、船室の壁に掛けた。
肩口が雨ではなく、波しぶきで濡れている。
髪も少し乱れていた。
短槍を投げたせいだろう。
手首に細い擦り傷がある。
彼女はそれを気にしていなかった。
気にしていないふりではない。
本当に優先順位の外に置いている顔だった。
「手」
俺は言った。
「何ですか」
「切れてる」
リヴィアは自分の手首を見た。
初めて気づいたような顔をした。
「浅いです」
「浅いかどうかは医者が言うことだと、最近、各方面から教育されている」
マリノが薬箱を開けながら頷いた。
「良い教育です」
「俺は教育されすぎている」
「成果が出ています」
リヴィアは一瞬だけ困った顔をした。
船団の娘が、怒られる側に立たされた顔だった。
少し珍しい。
「マリノ、後で」
「今です」
「黒帆が」
「黒帆は逃げません。血は乾きます」
「船医が一番強いな」
俺が言うと、マリノは無表情で答えた。
「船では、怪我を軽く見る者から死にます」
リヴィアは黙って手を差し出した。
その素直さが、少しだけ可笑しかった。
笑いかけると、脇腹が痛んだ。
「痛い」
「笑わなければいいのです」
リヴィアが言った。
「船の上で厳しい女が医者に怒られているのは、笑うだろ」
「笑いません」
「俺は笑う」
「だから痛むのです」
「正しい」
テオが扉の近くで、紙束を油布に包み直していた。
彼は二人のやり取りを見て、薄く笑う。
「ロド、君は寝台に縛っておいた方が、かえって口がよく動くね」
「動けないから口くらい動かす」
「船賃の代わりに、口数で払うつもりかい」
「値引きしろ」
「検討するよ。今のところ、君は拾得物、参考資料、動かない証人、動かない助言者、そして船酔い患者だ。分類が多い」
「ひとつにまとめろ」
「面倒」
「商人が面倒と言うな」
リヴィアは手当てされながら、こちらを見た。
「その分類に、囮を足します」
「足すな」
「必要です」
「何の話だ」
リヴィアはマリノに手首を巻かれながら、テオへ視線を送った。
テオは油布の包みを軽く持ち上げる。
「船内の手引きは、名前写しの紙束がどこにあるか知りたい。黒帆も、それを取り戻したい。なら、紙がここにあると思わせれば、向こうから来る」
「ここって」
「君の船室」
「俺の船室ではない」
「今は君が一番長く占有している」
「占有ではなく収容だ」
「意味は似ている」
嫌な商人だ。
間違ってはいないところが、さらに嫌だ。
「つまり、俺のところに偽物の紙を置くのか」
「そうです」
リヴィアが言った。
「本物は別の場所に移します。あなたの革袋の近くに、油布で包んだ偽の紙束を置く。内通者が、あなたをただの怪我人だと思って近づけば、捕まえられる」
「ただの怪我人ではないぞ」
「ただの怪我人より面倒な怪我人です」
「言い換えて悪化させるな」
テオが笑った。
「大丈夫。君は寝ているだけでいい」
「俺が寝ているだけで終わったことがあるか」
「ないね」
「即答するな」
「だから囮として有望だ」
おかしい。
褒められている気がしない。
「リヴィア」
「何ですか」
「俺が囮になるのはいいとして」
「いいのですか」
「よくはないが、できることがそれならやる。だが、内通者が俺を刺しに来たらどうする」
「刺される前に止めます」
「どこから」
リヴィアは、船室の狭さを見回した。
寝台。
左の桶。
壁の棚。
医療道具の箱。
吊るされた濡れた外套。
小さな衝立。
そして、俺の寝台の横にある収納箱。
「そこに入ります」
「どこに」
「寝台の下です」
俺は黙った。
テオも黙った。
マリノだけが、包帯を結び終えて静かに言った。
「狭いですが、可能です」
「可能かどうかの問題ではない」
俺は言った。
「俺の寝台の下に、海の姫が隠れるのか」
「共和国に姫はいません」
「そこじゃない」
「なら問題ありません」
「ある」
「何がですか」
リヴィアは真顔だった。
本当に真顔だった。
この女は、必要なら本当に寝台の下に潜る女だ。
強い。
そして、やはり危ない。
五番。
女の人にいいところを見せようとしない。
今は俺ではなく、女の人が寝台の下に入ろうとしている。
注意書きが想定していない事態だ。
「テオ」
「何だい」
「この場合、五番は適用されるのか」
「されるね」
「どういう理屈だ」
「君は、気にしないふりをしていいところを見せようとする可能性がある」
「見抜くな」
「商人だからね」
リヴィアが首を傾げた。
「五番とは、本当に便利な指示ですね」
「便利に使うな」




