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第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 Another Side:黒帆

 黒い帆は、夜のためにある。


 ただ黒い布を張っているわけではない。


 煤を擦り込み、松脂を薄く伸ばし、潮で固める。


 そうすると、帆は風を受けながら、月のない海で輪郭を曖昧にする。


 船名も出さない。


 旗も掲げない。


 名乗らない船は、海の上でいちばん扱いやすい。


 名乗らなければ、誰の罪にもならない。


 少なくとも、紙の上では。


 黒帆の船は、サレーネ船団の小型船を斜め後ろから追っていた。


 近づきすぎず、離れすぎず。


 一度、接舷を試みた。


 だが、失敗した。


 相手の船は、思ったより速かった。


 いや、船そのものより、指揮が速かった。


「サレーネの娘か」


 黒帆の甲板で、片目に傷のある男が呟いた。


 男は船長ではない。


 この船では、船長という名は使わない。


 名があると、失った時に困る。


 だから、船の上では役だけがある。


 舵を取る者。


 帆を見る者。


 縄を投げる者。


 そして、紙を預かる者。


 片目の男は、紙を預かる者だった。


「厄介だな」


 そばの水夫が言った。


「女一人で船が変わるとは思わなかった」


「女一人ではない」


 片目の男は、サレーネの船を見た。


 黒い海の上で、相手の船は角度を変えている。


 逃げているのではない。


 外している。


 こちらが噛みつこうとする場所を、少しずつずらしている。


「船が、あの女の声を聞いている」


 水夫は黙った。


 海の上で、それは冗談ではない。


 声を聞く船と、聞かない船がある。


 聞く船は、沈みにくい。


 そして、捕まえにくい。


 片目の男は、手元の小さな油紙を開いた。


 青い細線が一本。


 それだけが目印だった。


 文字は少ない。


 だが、必要なことは十分に書かれている。


 薬草樽。


 名前写し。


 サレーネ船団。


 ラグナ出航後、回収。


 失敗時、焼却。


 最後の一行だけ、筆圧が違った。


 紙は残すな。


 片目の男は、その一行を指でなぞった。


 紙を残すな。


 名を残すな。


 だが、自分たちには紙で命令が来る。


 ずいぶん都合のいい話だと思う。


 もちろん、口には出さない。


 紙の向こうにいる者は、都合の悪い言葉を嫌う。


「船内の手は」


 水夫が訊いた。


「まだ生きている」


「合図は」


「遅れている」


「失敗したのか」


「まだ分からない」


 片目の男は、サレーネの船の船腹を見た。


 あの中に、手がある。


 こちらから伸ばした手。


 水夫の服を着て、桶を運び、縄を触り、水に薬を入れる手。


 黒帆は外から近づく。


 手は内側から鈍らせる。


 それで終わるはずだった。


 見張りが倒れ、舵が乱れ、帆綱を扱う者が眠り、船足が落ちる。


 そこへ鉤縄をかけ、薬草樽ごと紙を戻す。


 簡単な仕事のはずだった。


 だが、サレーネの娘は早かった。


 舵を二人にした。


 帆綱を替えた。


 水桶を調べた。


 まるで、内側の手に気づいたように。


「誰かが読んだか」


 片目の男は言った。


「何を」


「船の止め方だ」


 水夫は首を傾げた。


 片目の男は答えなかった。


 サレーネの船には、予定になかったものが乗っている。


 ラグナで拾われた怪我人。


 道端に転がっていた男。


 半分抜けた剣を抱えていたという。


 ただの怪我人なら、どうでもいい。


 だが、ただの怪我人を、サレーネの娘が船に乗せる理由がある。


 そして、その怪我人の近くに、グラント商会の若旦那がいる。


 商人は紙を読む。


 怪我人は、時々、余計なものを見る。


 片目の男は、それを知っていた。


 戦えない者ほど、見ていることがある。


「黒帆を寄せますか」


 舵の男が訊いた。


「まだだ」


「なぜ」


「今寄せれば、向こうは切る。あの娘は、船を捨ててでも紙を守る顔をしている」


「では」


「待つ」


 片目の男は、油紙を畳んだ。


「手が、もう一度伸びる」


 その時、黒帆の船尾で、小さな灯が一度だけ揺れた。


 合図ではない。


 合図に見せないための合図だ。


 片目の男は、それを見た。


 船内の手は、まだ動ける。


 なら、外から無理に噛みつく必要はない。


 海では、待てる者が強い。


 焦って寄せた船から沈む。


 片目の男は、サレーネの船を見続けた。


 あの船の中に、名前がある。


 死んだ者の名。


 行方不明の者の名。


 帰っていない者の名。


 名前は人ではない。


 紙に写せば、荷になる。


 荷になれば、運べる。


 運べば、売れる。


 売れば、別の誰かになれる。


 そう教えられた。


 紙の向こうの人に。


 だが、片目の男は、ときどき思う。


 名前は、本当にそんなに軽いのか。


 その疑問も、もちろん口には出さない。


 疑問は、海より深いところへ沈める。


 沈めれば、なかったことになる。


 少なくとも、紙の上では。


「黒帆は手だ」


 片目の男は、小さく呟いた。


 水夫が振り返る。


「何か」


「何でもない」


 手は見る必要がない。


 手は掴めばいい。


 見る者は、別にいる。


 黒帆は、夜の海で静かに角度を変えた。


 サレーネの船は、まだ前を走っている。


 紙は、まだ向こうにある。


 名前は、まだ海の上にある。


 ならば、まだ終わっていない。


 片目の男は、油紙を懐へ戻した。


 青い細線が、闇の中に消えた。


 黒帆は、少しだけ距離を取った。


 逃げたのではない。


 待つために、離れたのだ。



──Another Side 了


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