129/268
第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 ⑥ 濡れた手
同じ頃、船尾近くの狭い物置で、ひとりの男が濡れた手を拭いていた。
水夫の上着。
濡れた袖。
爪の間に、薄い薬草の粉。
男は、誰にも見られていないことを確認し、小さな紙片を舌の下から取り出した。
紙片は湿っていた。
だが、青い細線だけは残っている。
男はそれを噛み、飲み込んだ。
甲板では、まだ鐘の余韻が揺れている。
黒帆は離れた。
だが、遠ざかったわけではない。
男は、暗い物置の中で、低く呟いた。
「名前は、まだ海の上だ」
それから、何事もなかったように桶を持ち上げ、甲板へ戻っていった。
──第二十三部 了




