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第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 ⑤ 海の姫の怒り

 黒帆は、完全には逃げなかった。


 だが、接舷を諦めた。


 距離を取り、斜め後方へ回る。


 こちらを見ている。


 追い続けるつもりだ。


 リヴィアは追撃しなかった。


 相手を沈めることより、紙と船を守ることを選んだ。


 それが海の判断なのだろう。


 しばらくして、テオが船室へ戻ってきた。


 額に汗。


 外套の袖に煤。


 紙束は無事だ。


「生きてる?」


「左の桶には負けていない」


「今回は?」


「今回は」


「進歩だね」


「嬉しくない進歩だ」


 テオは寝台脇に腰を下ろさず、リヴィアに言われた道具置きの位置を避けて立った。


 学習している。


「君の推測、当たったよ。帆綱の水桶に薬が入っていた」


「誰が」


「まだ分からない。だが、船内にいる」


「黒帆は」


「接舷には失敗。だが、まだ追っている」


「しつこいな」


「名前は高いからね」


「値段をつけるな」


「つけた者がいる。だから追ってくる」


 テオは油布の包みを軽く叩いた。


「この紙は、思ったより高い」


「嫌な言い方だ」


「商人だからね」


 扉が開いた。


 リヴィアが入ってきた。


 外套は少し濡れている。


 髪が乱れている。


 短槍は手にない。


 投げたのだろう。


 代わりに、腰の短剣を差していた。


 顔は静かだった。


 静かすぎた。


「ロド・カナリ」


「何だ」


「助言は当たりました」


「当たってしまったか」


「ええ」


「悪い」


「なぜ謝るのです」


「当たらない方がよかった」


 リヴィアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「そうですね」


 短い返事だった。


 だが、それで十分だった。


 彼女は、自分の船の中に手引きがいることを認めた。


 それは、船団の娘にとって、かなり痛いことなのだろう。


 痛いと言わない女だ。


 でも、顔には少し出ていた。


 俺はそれを読んでしまった。


 読んでいいのか分からない。


「リヴィア」


「何です」


「痛いなら、言え」


 言ってから、しまったと思った。


 それは俺が言われる側の言葉だ。


 俺が言うには、少し早い。


 リヴィアは、意外そうに俺を見た。


 テオも少し黙った。


 マリノは薬箱を閉じる手を止めた。


 船が揺れる。


 灯りが揺れる。


 リヴィアは、少しだけ笑った。


「今、それをあなたに言われるとは思いませんでした」


「俺も思わなかった」


「では、記録しておきます」


「記録するな」


「いえ、します」


 彼女はまっすぐ俺を見た。


「痛いです。うちの船で、名前を運ばれたことが」


 その声は、低かった。


 怒りではなく、責任の声だった。


「だから、取り戻します」


「名前を?」


「船も、名前も、海路も」


 海の姫は、そう言った。


 俺は、天井ではなく彼女を見た。


 この女は強い。


 そして、危ない。


 惚れるな。


 五番。


 女の人にいいところを見せようとしない。


 いや、今は俺が見せられている側だ。


 なら、どうすればいい。


 分からない。


 俺は、船酔いのせいにした。


「ロド」


 テオが言った。


「顔」


「読むな」


「読まなくても分かる時がある」


 リヴィアが少し首を傾げた。


「何ですか」


「何でもない」


 俺とテオは同時に言った。


 リヴィアの目が細くなる。


「あとで聞きます」


「聞かなくていい」


「記録します」


「記録もするな」


 船室に、少しだけ笑いが落ちた。


 黒帆はまだ後ろにいる。


 船内の手引きもまだ見つかっていない。


 名前の紙束は、油布の中で湿った重さを持っている。


 状況は悪い。


 かなり悪い。


 だが、さっきより少しだけ息がしやすかった。


 たぶん、痛いと言えたからだ。


 俺ではなく、リヴィアが。


 海の上でも、その言葉は役に立つらしい。


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