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第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 ④ 帆綱の水桶

 甲板では、リヴィアが黒帆を見ていた。


 テオから俺の推測を聞くと、彼女は一瞬だけこちらの船室の方を見たらしい。


 後でテオから聞いた。


 その顔は、少しだけ面白そうだったという。


 腹が立つ。


 だが、悪くない。


 リヴィアはすぐに命じた。


「舵手を二人に。帆綱に交代を入れなさい。飲み水の桶を確認。眠り薬の匂いがするものは捨てる。船倉の樽は封鎖。黒帆を船尾側へ回さないで」


 指示は速かった。


 水夫たちが動く。


 そこへ、黒帆の船が迫る。


 大きな船ではない。


 低い船体。


 黒く固めた帆。


 船首には印がない。


 海賊旗もない。


 名乗らない船。


 それが一番厄介だ。


 相手は矢を放った。


 リヴィアの船は弓を返さない。


 ただ、船の角度を変える。


 黒帆が接舷しようとする場所を、少しずつずらす。


 海の戦いは、剣より先に位置で決まる。


 リヴィアはそれを知っている。


「まだ撃たない!」


 彼女は言った。


「近づけさせて、外させる!」


 黒帆から鉤縄が飛ぶ。


 一つ目は海へ落ちる。


 二つ目は船縁にかかる。


 水夫が斧で切る。


 三つ目が帆綱へ絡みかけた。


 その瞬間、リヴィアが短槍を投げた。


 槍は縄を直接切らない。


 縄を投げた男の手元に刺さる。


 男が手を離す。


 縄が海へ落ちる。


 甲板が沸いた。


「今!」


 リヴィアの声。


 弓が一斉に返る。


 黒帆の甲板に矢が刺さる。


 殺すためではない。


 立たせないための矢だ。


 足元、手元、帆綱の近く。


 黒帆の船足が乱れる。


 そこへ、サレーネ船団の水夫たちが帆を切り替えた。


 船体が風を噛む。


 ぐん、と逃げる。


 接舷できない距離が開いた。


 船室の中にいても、その変化は分かった。


 揺れ方が変わった。


 船が、自分で走り出したような揺れだった。


「動いた」


 俺は言った。


 マリノが頷いた。


「逃げではなく、外しましたね」


「海の姫は強いな」


「強いですよ」


「お前が言うと、重いな」


「船医ですから」


 黒帆はすぐには離れなかった。


 もう一度角度を変え、追ってくる。


 だが、最初の接舷に失敗したことで、勢いは削がれている。


 その時だった。


 甲板の反対側で、叫びが上がった。


「帆綱の水桶に薬!」


 俺は息を止めた。


 当たった。


 いや、当たってしまった。


 リヴィアの声が飛ぶ。


「捨てなさい! 触った者は手を洗う! 舵手、交代を離すな!」


 船内の手引きは、やはりまだ動いていた。


 黒帆は外から来る敵。


 眠り薬は内側から船を鈍らせる敵。


 外と内。


 同時だ。


 リヴィアは怒っているだろう。


 静かに。


 たぶん、かなり。


 俺は、寝台の上で拳を握った。


 何もできない。


 だが、何もしていないわけではない。


 そう思いたかった。


 空の硝子管が、革袋の中で小さく鳴った。


 からん。


 戻ってくる。


 俺は戻る。


 そのために、今は寝台の上で証人を続ける。


 情けない。


 だが、情けなくても役に立てるなら、それでいい。


 たぶん。


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