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第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 ③ 死者名簿

 船室へ戻されてすぐ、俺は左の桶に負けた。


 敗北は短かった。


 だが、深かった。


 マリノは何も言わず、水を差し出した。


「屈辱だ」


「船酔いは、身分を問いません」


「便宜上、傭兵だぞ」


「船酔いに便宜は通じません」


「海、怖いな」


「少し慣れます」


「いつ」


「人によります」


「今すぐがいい」


「無理です」


 即答が多い船医だった。


 嫌いではない。


 いや、今は少し嫌いだ。


 桶のせいだ。


 甲板では、足音が増えていた。


 水夫たちが走っている。


 帆が引かれる音。


 縄が柱に巻かれる音。


 誰かが短く命令する声。


 リヴィアの声は、その中でもよく通った。


「右舷の荷を締め直して! 船首を風下に落としすぎない! 弓は見せるだけ、まだ撃たない!」


 陸の指揮と違う。


 彼女は人だけではなく、風と帆と水を同時に動かしている。


 俺は寝台の上でそれを聞いていた。


 聞くことしかできない。


 それが悔しい。


 だが、悔しがるにも体力がいる。


 今の俺には、それすら少し高価だった。


 扉が開いた。


 テオが入ってきた。


 紙束を油布に包み、胸に抱えている。


 顔はいつもより真面目だ。


「生きているね」


「左の桶に一度負けた」


「それは海への挨拶だ」


「海は礼儀が悪い」


「たしかに」


 テオは船室の揺れに合わせて立っている。


 慣れている。


 腹が立つ。


 商人はなぜ、どこでもそれなりに立てるのか。


「黒帆は」


「近づいている。速い。海賊というより、小型の追い船だね」


「黒い帆は、組織の印か」


「分からない。黒帆そのものは珍しくない。安い布を松脂と煤で固めると、夜目に紛れやすい」


「松脂」


 俺はその言葉に反応した。


「どうした」


「前にも、松脂の匂いがあった」


「どこで」


「靴底だ。黒い松脂」


 テオの目が細くなった。


「陸の連中と、海の追い船が同じ材料を使っている可能性か」


「同じ組織かは分からない」


「でも、同じ商流から買っているかもしれない」


「お前、商人だな」


「褒め言葉として受け取るよ」


 テオは油布の包みを押さえた。


「黒帆の正体は、まだ決めない方がいい。ただ、彼らはこの紙を欲しがっている。あるいは、この紙が見つかったことを消したがっている」


「船内の手引きは」


「いるだろうね」


「誰だ」


「まだ分からない」


「お前でも?」


「僕は神ではないよ。商人だ」


「似たような顔をする時がある」


「それは請求時だけだね」


 甲板で、何かが弾ける音がした。


 木に当たる硬い音。


 マリノが顔を上げる。


「矢です」


「もう撃ってきたのか」


「距離を詰める前の威嚇でしょう」


 俺は起き上がろうとした。


 マリノが額を押した。


 戻された。


「なぜ全員、俺の額を押す」


「倒れる前に戻すには、額が早いので」


「便利な構造にするな」


「便利です」


 テオが少しだけ笑った。


 だが、すぐ真顔に戻る。


「ロド、君にひとつ確認したい」


「何だ」


「革袋の中に、死者名簿はまだあるのか」


 俺は、息を止めた。


 ヴェロニカから受け取った名簿。


 死んだ者の名。


 青銅の札。


 革袋の奥にある。


 最近、あまり口に出していなかった。


 だが、失くしたわけではない。


 置いてきたわけでもない。


 重すぎて、簡単には触れない場所にしまってあるだけだ。


「ある」


「見せられるかい」


「今か」


「今だ。船倉で出た名前写しと、書式が重なるか見たい」


「俺の革袋を漁るなよ」


「君が開けるなら、漁らない」


「商人としては?」


「見えたものは見る」


「正直だな」


「だから、君が出した方がいい」


 俺は革袋へ手を伸ばした。


 指がうまく動かない。


 マリノが手伝おうとしたので、俺は首を振った。


「自分でやる」


「無理なら言ってください」


「痛い」


「手伝います」


「早いな」


「痛いと言いました」


 マリノは、革袋を俺の胸元へ寄せた。


 俺は中を探った。


 空の硝子管。


 ニーナの白い布が巻かれている。


 セラの包帯。


 マレーナの薬草袋。


 ヴェロニカの止血粉。


 ハンナの馬蹄鉄。


 リータの白い布。


 ヴィクトルの青い活字。


 エルゼの退院証。


 イザベルの代筆券。


 ハインリッヒの栞。


 そして、革袋の底。


 布に包んだ小さな束。


 死者名簿。


 青銅の札が三枚。


 指先が触れた瞬間、少しだけ胸が重くなった。


「あった」


 俺は包みを出した。


 テオの顔から、今度こそ笑みが完全に消えた。


「これは」


「死んだ者の名だ」


「誰から」


「外科医から」


「女性名?」


「そこは今いいだろ」


「そうだね。今はいい」


 テオは慎重に包みを受け取った。


 指先が紙を傷つけないように、爪を立てない。


 商人の手だ。


 金を数える手でもあり、紙を殺さない手でもある。


「青銅の札もある」


「三枚だ」


「これは、船倉の名前写しとつながる可能性がある」


「なぜ」


「名簿が売られる時、名前だけでは弱い。札、通行印、治療記録、死亡証言。そういうものが添えられると、紙は人の形を持つ」


 嫌な言い方だった。


 だが、分かる。


 名前に体を与える道具。


 その一部が、青銅の札かもしれない。


「これを船倉の紙と照合したい」


「持っていくのか」


「君の目の届く範囲で」


「今の俺の目は、桶の範囲くらいしか届かない」


「では、ここで見る」


 テオは寝台脇の小さな台に、油布を敷いた。


 マリノが灯りを寄せる。


 船は揺れる。


 それでも、テオの手は揺れを計算に入れて紙を開いた。


 死者名簿。


 俺は久しぶりに、その名前の列を見た。


 重い。


 名前は、軽く見えて重い。


 船倉の名前写しとは、種類の違う重さだ。


 ひとつは、死んだ者を冷まさないための記録。


 もうひとつは、死んだ者を別の紙に着せるための記録。


 同じ名前でも、使う手によって、祈りにも商売にもなる。


「……似ている」


 テオが言った。


「書式か」


「一部だけだ。名前の並びではなく、余白の取り方。死亡地ではなく、搬送地を先に置く癖がある」


「エルゼみたいなことを言うな」


「彼女も記録係だろう?」


「知ってるのか」


「君が寝言で言った」


「嘘だろ」


「半分」


「どっちの半分だ」


「商人の半分だよ」


 分からない。


 だが、問い詰める体力がない。


 テオは青銅の札を見た。


 表面を灯りにかざす。


「これは、海ではなく陸の札だ。だが、穴の位置が変だ」


「穴?」


「吊るすための穴が、少しずれている。実用ではなく、束ねるために後から開けた可能性がある」


「束ねる?」


「名簿と札を組にするため」


 甲板で、今度は大きな音がした。


 矢ではない。


 鉤縄だ。


 何かが船縁に引っかかる音。


 リヴィアの声が響いた。


「切って! 絡ませない! 船腹に寄せるな!」


 テオは紙を畳んだ。


「ここまでだ」


「持っていくな」


「分かっている」


 テオは死者名簿と青銅の札を、俺の革袋へ戻した。


 俺はそれを確認した。


 からん、と空の硝子管が鳴った。


 その隣に、死者名簿の重さが戻る。


 少しだけ息がしやすくなった。


 いや、船酔いは続いている。


 気分の問題だ。


「ロド」


「何だ」


「この名簿は、なくさない方がいい」


「分かってる」


「本当に?」


「戻る理由が多すぎるんだ、俺は」


 テオは、少しだけ黙った。


 それから、薄く笑った。


「それは良いことだ」


「そうか」


「少なくとも、死に急ぐ理由よりは高く売れる」


「値段をつけるな」


 甲板からまた声が飛んだ。


「接舷、来ます!」


 テオが立ち上がる。


「リヴィア殿のところへ戻る」


「俺も」


「駄目だね」


「分かってる」


 自分で言って、少しだけ悔しかった。


 分かっている。


 俺は今、立てない。


 剣も抜けない。


 動けば邪魔になる。


 なら、ここでできることを探すしかない。


「テオ」


「何だい」


「黒帆の船が近づくなら、向こうも揺れるよな」


「もちろん」


「接舷するには、こっちの船足を殺したいはずだ」


 テオの目が細くなった。


「続けて」


「船倉の眠り薬は、見張りを倒すだけじゃない。もっと前に使うつもりだったんじゃないか。舵か、帆か、縄を扱う水夫に使うために」


 テオの顔が変わった。


「船内の手引きは、まだどこかで薬を使える」


「たぶん」


 俺は息を吸った。


「リヴィアに言え。見張るなら、船倉じゃない。舵と帆だ」


 テオは一瞬だけ俺を見た。


 それから、笑った。


「動かない証人から、動かない助言者へ昇格だ」


「船賃から引け」


「検討する」


 テオは船室を出た。


 俺は寝台に残された。


 マリノが俺を見る。


「良い推測です」


「当たってるかは分からない」


「海では、早めの推測が命を拾うことがあります」


「陸でもそうだ」


「あなたは陸で拾われた側でしょう」


「言い返せない」


 船が揺れる。


 桶が少し動く。


 俺は桶を睨んだ。


 桶は無言だった。


 勝てる気がしない。


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