第二十三部 黒帆と、海の姫の怒りの話 ② 動かない証人
「右舷、黒帆!」
甲板からの叫びが、船倉の湿った空気を切った。
船が大きく揺れる。
俺は柱に背中を預けたまま、胃の中身と魂の位置を確認した。
どちらも危うい。
リヴィアは短槍を取った。
テオは名前写しの紙束を抱えた。
マリノは倒れた水夫の脈を確認している。
俺は動かない証人として、たいへん動けない。
「マリノ、怪我人と倒れた水夫を船室へ。テオ殿、紙を持って私の後ろへ。ロド・カナリ」
「何だ」
「吐くなら、左の桶です」
「今それを言うか」
「必要な確認です」
リヴィアは少しだけ笑った。
そして、笑みを消した。
その切り替えが速い。
船団の娘。
海の姫。
半分は皮肉、半分は敬意。
いま甲板へ向かう背中には、皮肉の入る余地はなかった。
あれは、責任を負っている女の背中だ。
「ロド」
テオが言った。
「紙は僕が持つ。君は生きていてくれ」
「注文が抽象的だ」
「君に対しては、最も実務的な注文だと思うよ」
「否定しにくい」
船がまた揺れた。
俺の胃が、船体より少し遅れて揺れた。
「……左の桶はどこだ」
「昇格が早いね」
「うるさい」
マリノが水夫二人を呼び、倒れた見張りを担がせた。
俺にも手を伸ばす。
「ロド殿、船室へ戻します」
「俺は」
「動かない証人は、船倉で潰されると証言できません」
「正論が痛い」
「痛いなら言ってください」
「痛い」
「よろしい」
また一人、俺への管理者が増えた。
数えたくない。
水夫二人が俺を支える。
正確には、抱える。
俺は歩いていない。
運ばれている。
参考資料から証人になったはずだが、輸送方法は荷物のままだった。
船倉を出る前、俺は一度だけ振り返った。
開けられた薬草樽。
上には乾いた薬草。
奥には油紙。
さらにその下に、名前の写し。
いくつもの名前。
死んだ者の名。
行方不明の者の名。
帰っていない者の名。
海は、それを軽々と運ぼうとしていた。
陸で売られた名前が、船に乗り、別の国へ渡る。
俺は、その光景を見てしまった。
なら、もう見なかったことにはできない。
「マリノ」
「何です」
「紙は濡らすな」
「私に言うことですか」
「誰かに言いたかった」
「では、テオ殿に」
「そうする」
俺は船室へ運ばれた。
階段を上がる途中で、魂が一度置いていかれかけた。
海の上下移動は、本当に信用できない。




