第二十二部 船酔い傭兵と、青い細線の薬草樽 Another Side:リューリック
レヴォナへ向かう道は、ブリエン東口を離れると急に細くなった。
表の街道は南へ流れる。
荷は海へ向かう。
だが、名前は違う。
名前は、もっと暗い道を通る。
林の間。
古い関所跡。
使われなくなった倉。
税を逃れる小道。
かつて軍の補給隊だけが使っていた抜け道。
リューリックは、その道を一人で歩いていた。
殿下はいない。
そのことが、思ったより静かだった。
静かすぎた。
いつもなら、背後か横で何かを言う声がある。
痛い。
腹が減った。
あの女は強いな。
俺は走っていない。
今のは半分だけだ。
そういう声がない。
ないと、道の音がよく聞こえる。
風。
遠い荷車。
鳥。
自分の靴底。
そして、尾行の足音。
一人。
いや、二人。
片方は慣れている。
片方は慣れていない。
尾行する者は、顔より足で嘘をつく。
殿下に説明したことがある。
殺す歩幅。
情報を渡す歩幅。
逃げ道を探す歩幅。
今の足音は、殺す歩幅ではない。
だが、善意でもない。
リューリックは、歩調を変えなかった。
右手には小さな荷。
内ポケットには、油紙の写し。
そこには青い細線と、崩れたリュの略号がある。
旧リュカリオン北方補給帳で使われた略式に似た文字。
似ているだけなら、追わなかった。
だが、筆の止め方が違った。
あれは、知っている者の崩し方だ。
知らない者が真似ると、線の終わりが違う。
あの略号は、誰かが覚えている。
誰かが、まだ使っている。
それが味方か、敵か、亡霊かは分からない。
だから追う。
殿下を待てなかった。
その事実は、胸の奥に重く沈んでいる。
だが、待っていれば消えた線でもある。
家令の仕事は、主君の横に立つことだけではない。
主君が来る前に、道の毒を見つけることも仕事だ。
たとえ、その毒が古い国の名前をしていても。
尾行の足音が近づいた。
リューリックは、古い石橋の手前で足を止めた。
「出てきてください」
返事はない。
「二人。左の藪に一人、橋の下に一人。左の方は靴紐が緩んでいます。橋の下の方は、呼吸を止めすぎです」
短い沈黙。
それから、藪が揺れた。
若い男が一人、出てきた。
痩せている。
手には短剣。
だが、構えが甘い。
殺し慣れてはいない。
橋の下から出てきたのは、もう少し年上の男だった。
こちらは、目が暗い。
「荷を置いていけ」
若い男が言った。
リューリックは、少しだけ目を伏せた。
殿下なら、ここで何か言う。
たぶん、荷より自分の扱いに文句を言う。
あるいは、粉袋の価値を語る。
だが、リューリックは言わなかった。
代わりに、荷を地面へ下ろした。
「この荷は、あなた方には重すぎます」
「何?」
「名前が入っています」
年上の男の目が動いた。
反応した。
当たりだ。
リューリックは、その反応だけで十分だった。
「誰に雇われました」
「うるさい」
若い男が踏み込む。
短剣の軌道は直線。
リューリックは避けなかった。
半歩入る。
手首を押さえる。
肘を返す。
短剣が落ちる。
男の膝が自然に折れる。
悲鳴を上げる前に、地面へ伏せた。
年上の男が動いた。
こちらは速い。
短剣ではなく、細い刺突剣。
狙いは喉。
リューリックは腰の剣を抜かなかった。
鞘で受ける。
金属が鳴る。
その音は小さい。
次の瞬間、リューリックの膝が相手の太腿へ入った。
男の重心が崩れる。
剣の柄で顎を打つ。
倒れる。
二人とも、死んではいない。
ただ、しばらく立てない。
リューリックは、ようやく剣の柄から手を離した。
抜く必要はなかった。
「何者だ」
年上の男が、土の上で呻いた。
リューリックは静かに答えた。
「家令でございます」
少しだけ間を置く。
「かつては、別の仕事もしておりました」
男の顔が変わった。
怯えではない。
記憶だ。
どこかで、その言い方を知っている顔だった。
リューリックはしゃがみ、男の懐を探った。
小さな紙片。
青い細線。
そして、短く一語。
灰橋倉。
レヴォナへ入る手前の古い倉の名だ。
リューリックは紙片を折り、内ポケットへ入れた。
殿下。
あなたがいない方が、私は速く動けます。
しかし。
あなたがいない道は、少し静かすぎます。
リューリックは立ち上がった。
橋の向こうに、夕方の影が伸びている。
名前を売る者たちの道は、まだ続いている。
彼は荷を拾い直し、レヴォナ方面へ歩き出した。
剣は、まだ抜かない。
抜くべき場所は、もう少し先にある。
──Another Side 了




