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第二十二部 船酔い傭兵と、青い細線の薬草樽 ⑤ 薬草樽の底

 俺は本当に運ばれた。


 水夫二人に支えられ、というより、ほとんど抱えられる形で船室を出る。


 情けない。


 かなり情けない。


 だが、歩けと言われても歩けない。


 床が動く。


 廊下が狭い。


 壁が近い。


 船は、陸の家より人に優しくない。


 階段を下りる時、俺は一度本気で死ぬかと思った。


「地面が、縦にも嘘をつく」


「階段です」


 リヴィアが前で言った。


「知ってる」


「顔は知らなそうです」


「読むな」


 船倉へ近づくと、空気が変わった。


 湿った木。


 油。


 縄。


 乾燥魚。


 革。


 そして、薬草。


 確かに薬草の匂いがある。


 だが、その奥に、何か混じっていた。


 甘い。


 いや、甘いというより、喉の奥に引っかかる匂い。


 湿った紙の匂いにも近い。


 腐ってはいない。


 だが、薬草だけではない。


 船倉の入口に、水夫が倒れていた。


 若い男だ。


 顔色が悪い。


 マリノが膝をつき、瞳孔と脈を確認する。


「毒ではない。強い眠り薬に近い。吸ったか、飲んだか」


「飲んではいないはずです」


 別の水夫が言った。


「樽の近くで、急に」


 リヴィアが俺を見た。


「匂いを」


 俺は船倉の奥を見た。


 三つの薬草樽。


 そのうち一つだけ、縄の結び方が違う。


 俺は気づいた。


 いや、俺が気づいたというより、今まで出会った女たちの記憶が勝手に動いた。


 マレーナなら、乾燥薬草の湿気を見る。


 ニーナなら、子どもに使う薬かどうかを嗅ぐ。


 ヴェロニカなら、止血粉の混ざり方を疑う。


 エルゼなら、荷札の余白を見る。


 イザベルなら、線の引き方を見る。


 俺は、その全部を少しずつ借りた。


「右の樽」


 俺は言った。


「あれだけ、薬草の匂いが浅い」


「浅い?」


「表面だけ薬草だ。奥に、別の匂いがある。眠り薬というより、煙にするやつかもしれない」


 マリノが眉を上げた。


「よく分かりましたね」


「よく死にかけているからな」


「経験の種類が嫌ですね」


「俺もそう思う」


 テオが右の樽へ近づいた。


 リヴィアが止める。


「不用意に触らない」


「商人の手癖を読まれた」


「読めます」


 リヴィアは水夫に布を渡した。


「口を覆って。樽を動かす前に、周囲を開けます」


 船倉の小窓が開けられた。


 潮の匂いが入る。


 俺の胃が少し反応した。


 今は吐くな。


 ここで吐いたら、ただの邪魔な拾得物に戻る。


 リヴィアが樽の荷札を確認した。


 青い細線。


 それに、貼り替えられた跡。


 テオが横から言った。


「これだ」


「開けます」


 リヴィアの声は短かった。


「正規荷ですが、船内の安全を優先します。記録は私が取ります。テオ殿、証人に」


「もちろん」


「ロド・カナリ」


「何だ」


「あなたも見ていますね」


「見ているというか、運ばれている」


「証人です」


「参考資料から昇格したか」


「動かない証人です」


「嬉しくない」


 樽が開けられた。


 上には乾燥薬草。


 一見、普通だ。


 だが、リヴィアが木の匙で上の薬草を退けると、下から油紙が出てきた。


 さらに、その下に薄い紙束。


 薬草ではない。


 通行札の写し。


 名前の控え。


 いくつもの名前。


 船倉の湿った空気の中で、紙は妙に白く見えた。


 テオの顔から笑みが消えた。


「名前写し」


 リヴィアが低く言った。


「薬草樽で、名前を運んでいる」


 俺は、息を吸った。


 脇腹が痛い。


 だが、それより胸の奥が冷えた。


 灰柳。


 イザベル。


 売られる名前。


 レヴォナ軽銀。


 青い細線。


 その全部が、海へ流れている。


 リヴィアは紙束を見つめていた。


 顔が硬い。


「うちの船で、こんなものを」


 彼女の声は静かだった。


 怒鳴るより怖い静けさだった。


「誰が積んだ」


「荷主名義は偽装されています」


 テオが言う。


「だが、この船に積む手続きをした者はいる」


 リヴィアは顔を上げた。


 その目は、さっき俺を拾った時の目とは違う。


 海の姫と呼ばれる女の目だった。


「船内に、手引きした者がいます」


 船が大きく揺れた。


 誰かが甲板で叫んだ。


「右舷、黒帆!」


 続いて、別の声。


「船影、近づいてきます!」


 リヴィアの表情が変わった。


「追ってきた?」


 テオが紙束を掴んだ。


「この荷を取り戻しに来た可能性がある」


 俺は、運ばれたまま船倉の柱に寄りかかっていた。


 剣はない。


 体も動かない。


 胃はまだ海と戦っている。


 だが、胸の奥だけは妙に熱かった。


 海へ流れる名前。


 その流れの上に、俺たちは乗ってしまった。


「リヴィア」


「何です」


「俺は、立てない」


「分かっています」


「剣も抜けない」


「分かっています」


「でも、名前の紙は見た」


 リヴィアは俺を見た。


「証人として?」


「ああ」


 俺は息を整えた。


「動かない証人として」


 テオが、こんな時なのに少し笑った。


「価値がついたね、ロド」


「船賃から引いておけ」


「検討するよ」


 甲板で、鐘が鳴った。


 今度こそ、助けの鐘ではない。


 警戒の鐘だった。


 リヴィアは外套を翻し、短槍を取った。


「マリノ、怪我人と倒れた水夫を船室へ。テオ殿、紙を持って私の後ろへ。ロド・カナリ」


「何だ」


「吐くなら、左の桶です」


「今それを言うか」


「必要な確認です」


 リヴィアは、少しだけ笑った。


 そして、甲板へ向かった。


 船が揺れる。


 黒帆が近づく。


 名前の紙束が、テオの手の中で白く震える。


 俺は運ばれながら、思った。


 ああ。


 どうやら海も俺を寝かせてはくれないらしい。



──第二十二部 了


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