第二十二部 船酔い傭兵と、青い細線の薬草樽 ② 船医マリノ
「吐くなら、左の桶です」
リヴィア・サレーネは、たいへん冷静に言った。
俺は寝台の上で天井を見ていた。
天井は揺れている。
灯りも揺れている。
俺の胃も揺れている。
そして、左には木桶があった。
清潔な桶だ。
清潔であることが、逆に不吉だった。
「吐かない」
「顔が吐くと言っています」
「海の女まで俺の顔を読むな」
「顔ではありません。色です」
「俺の色が何を言ってる」
「陸に帰りたい、と」
「正しい」
リヴィアは濡れ布を絞り、俺の額に置いた。
冷たい。
悔しいが、気持ちいい。
「船医が来ます。それまでは動かないこと」
「動くつもりはない」
「動きたい顔です」
「顔が多弁すぎる」
「体が黙っていない人ほど、顔が喋ります」
それは、少しだけ刺さった。
痛いと言えるようになったとはいえ、俺の体はまだ俺より正直だ。
肩は熱を持っている。
脇腹は深く呼吸すると痛む。
膝は、荷車から落ちた時の衝撃を思い出している。
そして胃は、海を全面的に拒否している。
船室の扉が開いた。
入ってきたのは、痩せた男だった。
年は四十前後。
髪は短く、顔色は日に焼けている。
片耳に小さな銀の輪。
白衣ではなく、紺色の短い上着を着ている。
腰には革袋。
手には小さな薬箱。
「船医のマリノです」
男は言った。
「あなたが、道端で拾われた半分抜きの傭兵ですか」
「名前より先に分類が来た」
「船では、まず状態を呼びます。名はその後です」
「状態名がひどい」
「では、ロド・カナリ殿」
「急に丁寧だな」
「身元不明よりは良いでしょう」
マリノは俺の瞼を上げ、脈を取り、包帯を確認した。
手つきは速い。
診療所の医者とも、戦場の軍医とも少し違う。
揺れる床の上で、揺れに逆らわずに診る手だ。
「肩は開きかけ。脇腹は打撲。膝は捻りかけ。熱は軽い。船酔いは、かなり」
「かなり、なのか」
「顔色だけなら、海に初恋を拒まれた男です」
「詩的にひどい」
リヴィアが少しだけ笑った。
笑うな。
いや、笑ってもいい。
いや、やはり俺で笑うな。
矛盾している。
船酔いのせいだ。
「マリノ」
リヴィアが言った。
「歩けますか」
「歩けません」
即答だった。
「少しは」
俺が言うと、マリノは俺の額を指で押した。
軽い力だった。
それだけで、俺の頭は枕へ戻った。
「歩けません」
「今のは不意打ちだ」
「海では不意打ちが基本です」
「怖いな、海」
「まだ嵐でもありません」
リヴィアが冷静に言った。
俺は目を閉じた。
海というものは、どうやら俺にかなり厳しい。




