第二十一部 海の姫と、道端で拾われる男の話 ② 海の姫
次に目を開けた時、天井が揺れていた。
いや、天井ではない。
板だ。
低い板張りの天井。
梁。
吊るされた灯り。
灯りが左右に揺れている。
体も揺れている。
寝台も揺れている。
世界全体が、少し遅れて呼吸している。
俺は、しばらく何も分からなかった。
次に、匂いが来た。
塩。
濡れた木。
油。
縄。
魚。
薬草。
そして、微かな血の匂い。
リンデンではない。
灰柳でもない。
粉挽き場でもない。
帝国病院でもない。
ここは、揺れている。
「……どこだ」
声が掠れた。
すぐ横で、誰かが動いた。
「目を覚ましましたか」
女の声。
さっき、水の向こうから聞こえた声だ。
俺は目だけを動かした。
女がいた。
海のような緑の外套は脱いでいる。
白い上着の袖をまくり、片手に濡れた布を持っている。
髪は黒に近い濃い茶色で、後ろで高く結ばれていた。
目が強い。
遠くを見ることに慣れた目。
風の向きを読む目。
彼女は俺の額に手を当てた。
「熱は、少しありますね」
「ここは」
「船です」
「船」
「ええ。シーロ行きの船です」
俺は、起き上がろうとした。
体が拒否した。
肩に熱が走る。
脇腹が軋む。
膝が重い。
「痛い」
声に出た。
女の目が少しだけ柔らかくなった。
「言えるなら、まだ大丈夫です」
「最近、言う訓練を受けている」
「妙な訓練ですね」
「俺もそう思う」
「でも、良い訓練です。生かす気がある人間は、痛みを聞きます」
その言葉は、さらりとしていた。
だが、少し残った。
この女も、何かを知っている。
海での傷か。
船での死か。
あるいは、もっと別のものか。
「名は」
彼女が訊いた。
「ロド・カナリ」
「嘘が下手そうな名です」
「初対面でひどいな」
「初対面ではありません。私はあなたを道端で拾いました」
「拾った」
「はい。道端で、革袋を抱えて、剣を半分だけ抜いて倒れていました」
「……半分だけか」
「半分だけでした」
「半分なら、まだ約束を半分守っている」
「誰との約束ですか」
「町医者の娘だ」
「その方には、たぶん怒られますね」
「知ってる」
女は少しだけ笑った。
笑うと、さっきまでの強さが少しほどけた。
「私はリヴィア・サレーネ。シーロ海洋共和国、サレーネ船団の者です」
「シーロ」
「ええ。あなたは今、シーロ行きの船にいます」
「俺は、ブリエン東口へ行くはずだった」
「そうですか」
「俺の家令がいる」
「家令」
「便宜上、家令だ」
「便宜上が多いですね、ロド・カナリ」
「俺もそう思う」
また起きようとした。
リヴィアの手が、額を押さえた。
強い。
動けない。
「起きない」
「だが、俺は」
「あなたが今できることは、横になっていることです」
「行き先を選べないのか」
「怪我人としては、選べません」
「傭兵としては」
「働けるようになってから聞きます」
「厳しいな」
「海は甘くありません」
「陸も最近、あまり甘くない」
「では、ちょうどいいですね」
船が大きく揺れた。
俺の胃も揺れた。
嫌な予感がした。
「リヴィア」
「何ですか」
「地面がない」
「船ですから」
「床が嘘をつく」
「海の上では普通です」
「海、怖いな」
「まだ港を出て半刻です」
「もう十分怖い」
リヴィアは笑った。
乾いた、明るい笑い方だった。
俺は少しだけむっとした。
むっとした直後、また船が揺れて、俺は目を閉じた。
むっとする資格は、あまりなかった。
革袋が胸元にあった。
俺はそれに気づいて、少しだけ息を吐いた。
「袋」
「離さなかったので、そのままです」
「中は見たか」
「見ていません」
「なぜ」
「命を拾うのと、秘密を盗むのは違います」
俺は、目を閉じたまま少し黙った。
良い言葉だった。
そして、危ない言葉だった。
惚れるな。
まだ早い。
ニーナの紙には五番がある。
女の人にいいところを見せようとしない。
いいところを見せる前に拾われ、運ばれ、寝かされている。
現状、悪いところしか見せていない。
なら安全だ。
たぶん。
船室の扉が叩かれた。
「リヴィア様」
水夫の声だった。
「グラント商会の若旦那が、例の荷札について確認を、と」
「後にしてください。怪我人が目を覚ましました」
「その怪我人についても、若旦那が確認したいと」
「怪我人を?」
「知り合いかもしれない、と」
俺は目を開けた。
「若旦那?」
リヴィアがこちらを見る。
「心当たりが?」
「商人の知り合いなら、いる」
「名は」
「テオ」
扉の向こうで、少し間があった。
そして、聞き覚えのある声がした。
「ロド。君、なぜ船室で死にかけた荷物になっているんだい」
俺は目を閉じた。
間違いない。
テオだ。
「入れてください」
リヴィアが言った。
扉が開く。
セオドール・グラントが立っていた。
整った旅装。
商人らしい軽い外套。
目だけがやけに鋭い。
彼は俺の状態を上から下まで見た。
包帯。
泥。
縛られた剣。
革袋。
寝台。
揺れる船室。
そして、リヴィア。
テオは深く息を吐いた。
「君、なぜ毎回、荷物みたいな登場をするんだ」
「今回は拾得物だ」
「悪化しているね」
「否定できない」
リヴィアがテオを見た。
「お知り合いですか」
「知り合いというか、勘定が合わない男です」
「勘定」
「死にかける回数に対して、生きている理由が多すぎる」
「なるほど」
「なるほどじゃない」
俺はテオを見た。
「リューリックは」
テオは、わずかに眉を上げた。
「リューリック?」
「あ」
俺は言いかけて、舌を噛んだ。
まだ頭が揺れている。
船のせいか、熱のせいか、野盗のせいか。
たぶん全部だ。
「……サンドルだ。サンドルは」
「ああ」
テオの表情が、そこで少しだけ変わった。
「サンドルは、数日前までブリエン東口にいた」
「数日前」
「君が一日遅れで来る予定だった日から、もう三日目だ」
「三日」
「そう。三日。君は途中で何をしていたのかな」
「野盗に襲われていた」
「普通の?」
「普通の」
テオは目を閉じた。
何かを噛みしめるような顔だった。
「ロド」
「何だ」
「大陸の陰謀より先に、普通の野盗で死にかけるのは、君くらいだ」
「俺もそう思う」
リヴィアが横で言った。
「この方、本当に傭兵なのですか」
「便宜上は」
テオが即答した。
「便宜上なのですか」
「彼の周囲は、だいたい便宜上です」
「説明になっていません」
「説明しようとすると、船が沈むくらい長くなります」
「沈めないでください」
「努力します」
俺は上体を起こそうとした。
リヴィアが押さえ、テオも手を出した。
二人が同時に言った。
「起きない」
「起きない方がいい」
「管理者が増えた」
俺は言った。
「海に出ても、俺への管理網は途切れないのか」
「途切れると思っていたのかい」
テオが言った。
「少し期待した」
「君には無理だね」
ひどい。
だが、否定できない。
「サンドルはどこへ行った」
俺はもう一度訊いた。
テオは、今度はごまかさなかった。
「レヴォナ方面の名簿線を追った。旧リュカリオンらしき略号が出た」
息が止まった。
痛む。
だが、その痛みどころではなかった。
「リュか」
「知っているのかい」
「……聞いた」
「嘘が下手だね」
「今日はよく言われる」
テオの目が鋭くなる。
リヴィアも、黙って俺を見る。
船室の空気が少し重くなった。
揺れているのに、重い。
「サンドルは、君を待ちたがっていた」
テオは言った。
「でも、待てなかった。荷札の線が動いた。名簿も動いた。彼は、追うしかなかった」
「分かってる」
「分かっている顔ではないね」
「顔を読む商人も増えたな」
「商売だからね」
俺は革袋を握った。
中で、空の硝子管が鳴る。
からん。
戻ってくる。
六番。
俺は戻る。
だが、その前に、リューリックが遠ざかっている。
俺が普通の野盗に倒れている間に。
それが、少しだけ悔しかった。
いや、かなり悔しかった。
「テオ」
「何だい」
「この船は、どこへ行く」
「シーロ」
「戻れるか」
「今すぐは無理だ。潮も、荷も、人も、もう動いている」
リヴィアが続けた。
「あなたの体も、戻るには向いていません」
「俺の体は、最近どこにも向いてないな」
「横になることには向いています」
「嬉しくない」
船がまた揺れた。
今度は大きい。
俺の胃が遅れて揺れた。
テオが少し笑った。
「ロド、船は初めてかい」
「川船ならある」
「それは、海ではないね」
「分かってる」
「顔が分かっていない」
「読むな」
リヴィアが濡れ布を取り替えた。
「話は短く。熱が上がります」
「俺はまだ」
「まだ、は危ない言葉です」
テオが頷いた。
「怪我人の『まだ』は、商人の『損していない』くらい信用できない」
「お前の業界も大変だな」
「君の体ほどではない」
俺は笑いかけた。
脇腹が痛んだ。
「痛い」
今度はすぐに言った。
リヴィアとテオが同時にこちらを見た。
そして、ほとんど同時に言った。
「よろしい」
「よし」
「二人で管理するな」
「必要そうなので」
リヴィアが言った。
「必要そうだからね」
テオも言った。
俺は天井を見た。
板張りの天井は、まだ揺れている。
陸はない。
リューリックもいない。
ニーナもいない。
代わりに、商人と、海の姫と、痛む肩がいる。
旅は、また勝手に曲がった。
俺は、まだ何も選べていない。
ただ、拾われた。
それでも、生きている。
なら、まずは息をするしかない。
潮の匂いが、船室の隙間から入ってくる。
俺は目を閉じた。
空の硝子管が、胸元で小さく鳴った。
からん。
その音だけは、陸の音だった。
──第二十一話 了




