第二十一部 海の姫と、道端で拾われる男の話 ① 道端で拾われる
助けが来る時、鐘が鳴るとは限らない。
旗が見えるとも限らない。
救い主が、白馬に乗っているとも限らない。
俺の場合、助けが来た時には、もう見えていなかった。
空も、枝も、野盗の顔も、半分だけ抜けた剣の光も。
全部、土と血と痛みの向こう側に沈んでいた。
だから、後から聞いた。
俺は半日ほど、道端で荷物のように転がっていたらしい。
荷物ならまだ値段がつく。
俺の場合、値段がつくかどうかは、かなり怪しかった。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
この日、俺は普通の野盗に襲われ、普通に負けかけ、普通ではない女に拾われた。
そして、目を覚ました時には、陸がなかった。
◇
野盗は五人いた。
黒い外套もない。
青いインクの印もない。
円の中の目もない。
大陸の闇を背負った顔ではなく、腹が減り、刃物を持ち、人の荷を奪うことに慣れた顔だった。
だからこそ、厄介だった。
陰謀の匂いがしない暴力は、遠慮なく人を殴る。
「荷を置いていけ」
先頭の男が言った。
俺は荷車の前に立っていた。
背中にはオルドと、驢馬のパン粉と、マルタから預かった粉袋がある。
革袋の中には、空の硝子管がある。
ニーナの注意書きもある。
一、走らない。
二、剣を抜かない。
三、痛いと言う。
四、途中で休む。
五、女の人にいいところを見せようとしない。
六、戻ってくる。
守れている項目を探した。
五番だけは守れていた。
いま、女はいない。
つまり、いいところを見せる相手もいない。
これは安全だ。
そう思った瞬間、左肩がずきりと痛んだ。
安全という言葉は、俺にはあまり似合わない。
「オルド」
「はい」
「パン粉を下げろ」
「ロドさんは」
「俺は、少し時間を稼ぐ」
「少しでいいんですか」
「今の俺に長く期待するな」
オルドは一瞬だけ迷った。
だが、粉挽き場の男は判断が早かった。
「パン粉、下がれ」
驢馬が耳を伏せ、荷車をじり、と後ろへ動かす。
賢い。
かなり賢い。
悔しいが、俺より状況判断が早い。
野盗の一人が、それに気づいた。
「逃がすな」
二人が荷車へ向かおうとする。
俺は剣の柄に手をかけた。
二、剣を抜かない。
ニーナの字が、頭の中でやけに大きく浮かんだ。
すまん。
半分だけだ。
鞘から刃が半分出る。
夕方前の林の光を拾って、鈍く光った。
「半分だけだから、まだ半分は守っている」
「何を言ってる」
野盗が言った。
「医療上の言い訳だ」
「こいつ、頭も怪我してるのか」
「そこはまだ診断されてない」
言いながら、俺は右へ半歩ずれた。
リューリックの声が頭の奥に響く。
勝つ剣ではなく、死なない足。
俺は棍棒を避けた。
一撃目。
避けられた。
右膝が少し鳴った。
「痛い」
声に出した。
野盗が一瞬、戸惑う。
良い。
戸惑うなら、まだ使える。
「何だ?」
「申告だ」
「誰に」
「町医者の娘に」
「ここにいねえだろ」
「それが問題だ」
俺は刃の腹で二撃目を受けた。
払わない。
受けるだけ。
肩に衝撃が走る。
熱い。
傷が怒っている。
ニーナも怒っている気がする。
空想上のニーナが、薬箱を構えている。
怖い。
だが、いま引くと、オルドとパン粉が追いつかれる。
粉袋が奪われる。
粉は村の腹だ。
それはリューリックの言葉だった。
俺は、いつの間にか他人の言葉で立っている。
「行け、オルド!」
「ロドさん!」
「粉を先に行かせろ!」
パン粉が動いた。
驢馬とは思えない速度で荷車を引く。
荷車が道の曲がり角へ滑っていく。
野盗の一人が追おうとした。
俺は半分抜いた剣を、その男の前へ差し出した。
斬らない。
脅すだけ。
それだけでも、怪我人の肩には重かった。
「退け」
「怪我人が偉そうに」
「偉そうなのは癖だ」
男が踏み込む。
俺は剣を引き、足で距離を取ろうとした。
そこへ横から拳が来た。
避けきれない。
左肩近くに入る。
視界が白く跳ねた。
「痛い」
また言えた。
偉い。
いや、偉くない。
次の棍棒が脇腹に入った。
息が止まる。
膝が落ちる。
地面が近い。
だが、まだ倒れない。
倒れるなら、オルドたちが見えなくなってからだ。
俺は地面を蹴った。
走ってはいない。
たぶん。
半歩だけ前へ出て、剣の柄で男の顎を打った。
綺麗な一撃ではない。
剣士としては雑。
傭兵としても雑。
だが、当たった。
男がよろける。
もう一人の足元にぶつかる。
二人まとめて崩れた。
俺は少しだけ笑った。
笑ったせいで脇腹が痛んだ。
「痛い」
「さっきから何なんだ、お前!」
「俺も知りたい」
残った三人が、顔を見合わせた。
荷車はもう見えない。
パン粉は逃げた。
オルドも逃げた。
粉も逃げた。
なら、目的は半分達した。
俺の剣も半分抜けている。
すべてが半分だ。
中途半端にもほどがある。
先頭の男が舌打ちした。
「殺すな。荷を奪った奴が戻る前に、こいつの袋だけ取る」
革袋。
まずい。
そこには、いろいろ入りすぎている。
セラの包帯。
ニーナの硝子管。
マレーナの薬草袋。
ヴェロニカの止血粉。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
ヴィクトルの青い活字。
エルゼの退院証。
イザベルの代筆券。
軽いものばかりなのに、どれも置いていけない。
「それは駄目だ」
俺は言った。
声が少し低くなった。
自分でも分かった。
野盗も、少しだけ足を止めた。
「袋ひとつに何が入ってる」
「面倒なものだ」
「なら、なおさら寄こせ」
「断る」
男が踏み込んだ。
俺は剣を抜き切ろうとした。
肩が拒んだ。
半分から先が、どうしても重い。
刃は抜けない。
鞘が引っかかる。
体がついてこない。
半分だけ戻った傭兵。
半分だけ守れる剣。
半分だけ守った約束。
だが、野盗は半分では止まらない。
棍棒が肩口を打った。
次に、膝。
俺は崩れた。
倒れる途中で、革袋を胸に抱えた。
子どもみたいだと思った。
だが、これだけは渡せない。
土の匂いが近い。
口の中に血の味がする。
男の手が革袋へ伸びた。
俺は最後に、鞘ごと剣を横へ振った。
まともな打撃ではない。
だが、男の足首に当たった。
男が転ぶ。
転んだ男に、後ろの男がつまずく。
さらに一人が悪態をつく。
普通の野盗は、連携も普通だった。
完璧ではない。
そこだけが救いだった。
「こいつ、面倒だ!」
「荷車は行った。もういい、離れろ!」
「袋は?」
「後で戻る。今はまずい」
どこかで馬の蹄が聞こえた。
オルドが誰かを呼びに行ったのか。
別の旅人か。
俺には分からない。
野盗たちは罵りながら退いた。
俺は追えなかった。
追うどころか、立てなかった。
林の枝が、空を細かく割っている。
その隙間から、薄い光が落ちていた。
俺は革袋を胸に抱いたまま、横向きに倒れていた。
「痛い」
言った。
誰も返事をしない。
ニーナもいない。
リューリックもいない。
セラも、ヴェロニカも、エルゼもいない。
返事がない「痛い」は、思ったより心細い。
俺はそこで、少しだけ笑った。
笑うと、また痛んだ。
「痛い」
もう一度言った。
今度は、声になったかどうか分からなかった。
空の硝子管が、革袋の中で小さく鳴った。
からん。
戻ってくる。
六番。
そうだ。
戻らないといけない。
そう思ったところで、意識が沈んだ。
◇
誰かが、遠くで喋っている。
声は水の向こう側から聞こえるようだった。
「……生きています」
「本当に?」
「脈があります。浅いですが、あります」
「この状態で?」
「ええ。しぶといですね」
失礼な会話だ。
そう思った。
思っただけで、目は開かなかった。
「リヴィア様、船の時刻が」
「分かっています」
「ラグナまで急がないと、潮が変わります」
「分かっています。でも、道端の怪我人を見捨てるほど、うちの船団は安くありません」
「野盗の残りが戻るかもしれません」
「だから急ぐのです。担架を」
「この男も連れていくのですか」
「このまま置けば、次に戻った時は死体です」
「身元は」
「革袋を抱いて離しません。名札は?」
「ありません。ですが、袋の中に紙が」
「勝手に見るな。命を拾うのと、秘密を盗むのは違います」
その声だけ、少し近くなった。
女の声。
強く、澄んでいて、潮風のように乾いている。
俺は目を開けようとした。
開かなかった。
体が重い。
肩が熱い。
脇腹が深いところで疼く。
膝はもう自分のものではない。
「包帯を見ます」
誰かの手が、俺の肩に触れた。
痛い。
だが、支え方はうまかった。
傷を避けている。
「乱暴に動いた跡があります。半回復の傷で戦いましたね」
誰に言っているのだろう。
俺か。
俺なら、反論したかった。
半分だけだ、と。
だが、口が動かない。
「剣が半分抜けています」
「半分?」
「半分だけ抜いて、そこで力尽きたようです」
「……変な男ですね」
その通りだ。
反論できない。
「リヴィア様」
「何です」
「荷車の跡があります。誰かを先に逃がしたのかもしれません」
「なら、見捨てる理由がひとつ減りました」
少しだけ、体が浮いた。
担架に乗せられたのだろう。
革袋を離そうとする手があった。
俺は無意識に抱え込んだらしい。
「離しませんね」
「持たせたまま運びなさい」
「重くなります」
「本人より軽いでしょう」
ひどい。
だが、ありがたい。
革袋が胸にある。
空の硝子管も、まだある。
戻ってくる。
六番。
俺は、それだけを握っていた。
馬車に乗せられた。
揺れる。
痛い。
かなり痛い。
だが、声は出ない。
女の声がした。
「急いで。船に乗せます。船医に診せる」
「ラグナの診療所ではなく?」
「埠頭まで戻る時間はない。潮が変わる。船医の方が早い」
「身元不明の怪我人を船に?」
「身元が分かるまで生かします」
そこで、意識がまた沈んだ。




