第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 Another Side:リューリック
ブリエン東口は、紙と荷と人の匂いがした。
海そのものは、まだ遠い。
だが、海へ向かうものが、ここで一度息を整える。
薬草樽。
粉袋。
革。
古布。
乾燥魚。
銀貨。
通行札。
名簿。
リューリックは、東口の取扱所に入る前に、まず靴底を見た。
人を見るより、足元を見る。
殿下なら、たぶん顔を見る。
あるいは、胸元を見る。
そこまで考えて、リューリックは小さく息を吐いた。
いない主君の失言まで想像する必要はない。
だが、想像できてしまうのだから仕方がない。
グラント商会の帳場は、東口の中でも奥まった場所にあった。
派手な看板はない。
だが、荷札の動きが多い。
信頼される商会ほど、看板より紙が忙しい。
「サンドル殿」
帳場の奥から、テオが出てきた。
いつもの柔らかい笑み。
だが、目は笑っていない。
商人の目だ。
「ロドは?」
「一日遅れで参ります」
「彼が予定通り来ると?」
「来る努力はするはずです」
「努力か」
「はい」
「それは不安な言葉だね」
「私も同感です」
テオは笑った。
それから、すぐに真顔になった。
「荷は待ってくれない。シーロ行きの小型船は、早ければ三日後にラグナ埠頭を出る」
「薬草樽は」
「まだ東口にある。だが、荷主名義が二度変わった」
「オーランド系商会ですか」
「一度はね。今は、ブリエン南岸の倉持ち名義になっている。紙の上では、だんだん近くなっている」
「紙の上で近づけ、実体を遠ざける」
「そういうこと」
テオは帳場の机に、一枚の荷札を置いた。
青い細線。
そして、その横に、崩れた略号。
リュ。
リューリックは、その文字を見た。
表情は変えなかった。
変えなかったが、胸の奥で、古い扉がひとつ開いた。
旧リュカリオン北方補給帳。
冬季遠征時の略式記号。
若い書記が間違いやすかった筆の止め方。
それを、彼は知っている。
知っている者が、今この大陸にどれだけ残っているか。
多くはない。
多くないはずだった。
「サンドル殿」
テオが言った。
「顔が、まったく変わらないね」
「職業上」
「でも、分かった顔だ」
「商人とは、厄介でございますね」
「紙を見る仕事だからね」
「それは代書人の台詞です」
「良い台詞は流通する」
リューリックは荷札から目を離した。
「この荷札の出所を見ます」
「ロドを待たずに?」
「殿下は一日遅れです」
「一日で済めばいいけど」
リューリックは、ほんのわずかに眉を動かした。
テオはそれを見逃さなかった。
「失礼。縁起の悪い商人でね」
「いえ」
リューリックは静かに答えた。
「殿下の場合、縁起ではなく傾向でございます」
テオは、少しだけ笑った。
「じゃあ、傾向が港に着く前に、紙を見よう」
「はい」
リューリックは、内ポケットの油紙に手を当てた。
殿下。
一日だけです。
どうか、一日だけは、予定どおりに。
そう思った。
だが、その願いが届く相手なら、彼はここまで苦労していない。
東口の外で、荷車の鈴が鳴った。
南へ向かう荷が、また一つ動き出す。
青い細線は、紙の上で静かに海へ向かっていた。
──Another Side 了




