第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 ④ 夕暮れの林
夕方前、道は林へ入った。
灰柳とブリエン街道をつなぐ古い荷道だ。
大きな街道ではない。
だが、荷車は通れる。
森は深くないが、曲がりが多い。
冬枯れの枝が空を細かく割り、風が通るたびに乾いた音を立てる。
オルドが少し手綱を引いた。
「どうした」
「静かすぎます」
「森は静かなものだろ」
「鳥がいない」
俺は周囲を見た。
たしかに、音が少ない。
パン粉の蹄。
荷車の車輪。
俺の呼吸。
それだけだ。
体の奥が、少しだけ昔の感覚を思い出す。
戦場ではない。
だが、良くない静けさというものはある。
「止まるか」
「止まると、囲まれた時に困ります」
「お前、粉挽き場の甥にしては慣れてるな」
「昔、少し荷護衛をしてました」
「早く言え」
「聞かれなかったので」
リューリックみたいなことを言う。
俺の周囲は、なぜこういう返しをする人間が増えるのか。
荷車が、ゆっくり進む。
右手の茂みが揺れた。
風ではない。
俺は革袋を押さえた。
剣は、腰にある。
半分だけ抜ける剣。
昨日、俺はそう思った。
だが、ニーナの紙には書いてある。
二、剣を抜かない。
俺は、紙の存在を思い出した。
思い出しただけ、偉い。
抜かないかどうかは、まだ別だ。
林の中から、男が一人出てきた。
次に、もう一人。
さらに、後ろに二人。
普通の野盗だった。
黒い外套もない。
青いインクの印もない。
円の中の目もない。
立派な陰謀の顔をしていない。
ただ、腹が減り、刃物を持ち、人の荷を奪う顔だった。
その普通さが、逆に嫌だった。
「荷を置いていけ」
先頭の男が言った。
声も普通だった。
脅し慣れているが、国を背負っている声ではない。
腹と酒代と明日の粥だけを背負っている声だ。
俺は思った。
大陸の陰謀より、こういう男たちの方が雑に人を殴る。
「オルド」
「はい」
「パン粉は、仕事を選ぶか」
「選びます」
「今は?」
パン粉が、前脚を一歩引いた。
戦う気はない。
たいへん賢い。
「逃げる仕事なら、やるそうです」
「いい驢馬だ」
野盗の男が眉を寄せた。
「何を話してる」
「移動手段の勤務態度だ」
「ふざけるな」
「かなり真面目だ。俺は怪我人だからな」
男たちの視線が、俺の包帯に集まった。
しまった。
怪我人と自分で言うと、狙われやすい。
ニーナの紙に七番が必要だった。
七、自分から怪我人と言わない。
遅い。
「怪我人なら、荷を降ろすのも楽だな」
男が笑った。
俺はため息をついた。
「オルド」
「はい」
「パン粉を頼む」
「ロドさんは?」
「できれば、剣を抜かずに何とかする」
「できなければ?」
「ニーナに怒られる」
「それは怖い」
「だろう」
俺は荷車からゆっくり降りた。
ゆっくり。
走らない。
跳ばない。
肩に力を入れない。
ニーナの声が頭の中でうるさい。
リューリックの声も混じる。
女にいいところを見せようとするな。
いや、今は女はいない。
では、いいところを見せなくていい。
これは有利だ。
そう思った瞬間、俺は少しだけ気が抜けた。
そこで、左の茂みから五人目が出てきた。
「五人かよ」
俺は言った。
「多くないか」
「何の基準だ」
「俺の回復具合だ」
先頭の男は、意味が分からないという顔をした。
当然だ。
俺も、何を言っているのか少し分からない。
ただ、時間は稼げた。
オルドがパン粉の手綱をそっと引く。
荷車の向きを少し変える。
逃げ道を作っている。
なかなかやる。
粉挽き場、侮れない。
俺は剣の柄に手を置いた。
抜かない。
まだ抜かない。
しかし、男の一人が短い棍棒を持って近づいてきた。
狙いは荷ではなく、俺の膝だった。
嫌な目をしている。
怪我人の動きを見ている目だ。
俺は足を引いた。
昨日のリューリックとの訓練。
死なない足。
右へ半歩。
棍棒が空を打つ。
いける。
そう思った瞬間、左肩が遅れた。
別の男の拳が、俺の肩の近くに入る。
痛い。
かなり痛い。
「痛い」
俺は言った。
野盗が困惑した。
「何だ?」
「申告だ」
「何の」
「医療上の」
「こいつ、何なんだ」
俺も知りたい。
だが、言えた。
痛いと言えた。
そのことに少しだけ満足したのが、たぶん良くなかった。
次の棍棒が、俺の脇腹に入った。
視界が白くなる。
膝が落ちそうになる。
俺は、とうとう剣を半分だけ抜いた。
半分だけ。
刃が鞘から半分出る。
夕方の林の光を拾って、鈍く光った。
野盗たちが、一瞬止まる。
その一瞬で、パン粉が動いた。
驢馬とは思えない速度で、荷車ごと後ろへ下がる。
オルドが見事に手綱をさばいた。
粉袋が揺れる。
革袋の中で、空の硝子管が鳴った。
からん。
俺は、歯を食いしばった。
「悪いが」
俺は言った。
「今日は、全部は渡せない」
言いながら、自分で思った。
格好つけるな。
五番。
女にいいところを見せようとしない。
いま女はいない。
ならいいか。
よくない。
頭の中でニーナが薬箱を構えている。
俺は剣を半分抜いたまま、野盗たちを見た。
半分だけ戻った傭兵。
半分だけ守れる剣。
半分だけ守った約束。
そして、五人の普通の野盗。
大陸の陰謀ではない。
英雄譚にもならない。
ただの街道の、ただの災難。
だが、俺には十分すぎるほどの相手だった。
――次の瞬間、林の奥で、別の馬の蹄が鳴った。
野盗のものではない。
もっと速く、もっと整った音。
俺は半分抜いた剣を握り直した。
視界の端で、パン粉の荷車が道の向こうへ消えていく。
オルドの声も、車輪の音も、少しずつ遠ざかる。
よし。
粉は逃げた。
空の硝子管は、まだ胸のところで鳴っている。
革袋も、まだある。
なら、目的は半分達した。
俺の剣も半分だけ抜けている。
何もかも半分だ。
中途半端にもほどがある。
野盗の一人が、棍棒を肩に担いで笑った。
「怪我人が、まだやる気か」
「やる気じゃない」
俺は息を吸った。
胸の下が痛む。
肩も痛む。
膝も、もうかなり怪しい。
「戻る気だ」
「何?」
「こっちの話だ」
ニーナの紙が、革袋の中にある。
一、走らない。
二、剣を抜かない。
三、痛いと言う。
四、途中で休む。
五、女の人にいいところを見せようとしない。
六、戻ってくる。
だいぶ破っている。
だが、六番だけは、まだ破っていない。
戻る。
戻らなければならない。
そのためには、ここで倒れるわけにはいかない。
いや。
倒れるにしても、もう少し後だ。
野盗たちが、じり、と距離を詰めた。
大陸の陰謀ではない。
青いインクでもない。
円の中の目でもない。
ただの街道の、ただの野盗。
だが、今の俺には、十分すぎる相手だった。
俺は半分抜けた剣を構えた。
刃は、最後まで抜けなかった。
肩が、それ以上を許してくれなかった。
「……痛い」
声に出した。
誰も返事をしない。
それでも、言えた。
言えたなら、まだ生きている。
野盗の棍棒が振り下ろされた。
俺は、半歩だけ前に出た。
──第二十話 了




