第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 ③ リンデンを出る
昼前になっても、診療所の騒ぎは収まらなかった。
むしろ、増えた。
最初の荷車の後から、もう一台来たのだ。
今度はブリエン街道側から流れてきた難民まじりの小隊だった。
小競り合いの巻き添えで切られた者。
荷崩れで腕を折った者。
軽い銀貨を拒まれ、粉を買えず、丸一日粥を食べていない子ども。
全部が、ひとつの診療所へ入ってきた。
居候老人だけでは、とても回らない。
ニーナがいなければ、たぶん何人かは待っている間に悪くなる。
俺は、分かってしまった。
彼女は、行けない。
俺と一緒に南へは行けない。
ニーナも、分かっていた。
それでも彼女は、しばらく言わなかった。
言わずに、腕を動かした。
薬を量り、布を替え、熱を見て、老人に確認し、マルタに粥の濃さを指示し、泣く母親に「息を吸って」と言った。
全部、必要なことだった。
俺は、荷車の横で待っていた。
オルドが手綱を握ったまま、困った顔をしている。
「ロドさん、どうします」
「待つ」
「どれくらい」
「分からん」
「パン粉は待つの嫌いですよ」
パン粉は、草を噛んでいた。
待つのが嫌いには見えない。
俺を運ぶのが嫌そうには見える。
「俺も嫌いだ」
「待つのが?」
「置いていかれるのが」
言ってから、しまったと思った。
オルドは気づかなかったふりをしてくれた。
粉挽き場の人間は、粉だけでなく空気も量れるらしい。
しばらくして、ニーナが診療所から出てきた。
袖に血がついている。
髪が少し乱れている。
顔は疲れていた。
だが、目は逃げていなかった。
「レオン」
「ああ」
「うちは行けない」
「分かってる」
「ごめん」
「謝るな」
「でも」
「謝るな。お前は、ここに必要だ」
ニーナは口を閉じた。
言葉が喉に詰まったような顔だった。
俺は続けた。
「昨日、お前は行くと言った。俺も一緒に来いと思った。かなり思った」
「うん」
「でも、今のお前を連れていったら、俺はたぶん、自分で自分が嫌になる」
「……何それ」
「分からん。今、言ってから俺も困ってる」
ニーナは、少しだけ笑った。
笑った目の端に、疲れがあった。
「患者のくせに、たまにまともなこと言うよね」
「たまに、は余計だ」
「かなりたまに」
「増やすな」
軽い会話だった。
だが、軽くしないと、たぶん重すぎた。
ニーナは薬箱を抱え直した。
「患者としては止めたい」
「ああ」
「肩もまだ駄目。膝もまだ怖い。長く揺られたら熱が戻るかもしれない。剣を抜いたらたぶん悪化する」
「散々だな」
「散々だよ」
ニーナは俺をまっすぐ見た。
「でも、止めたら、あんたは別のところで走る」
「信用がない」
「半分くらい」
「残り半分は」
「分かってきた」
それは、初めて聞く返事だった。
「だから、歩いて行きなさい」
ニーナは言った。
「走らないで。剣を抜かないで。痛いって言って。休んで。寝て」
そこで一度、言葉が切れた。
ニーナは俺の革袋を開け、さっき入れた注意書きの紙を取り出した。
薬箱の上で紙を押さえ、余白に一行を書き足す。
六、戻ってくる。
「増えたな」
「増やした」
「六番は何だ」
「読めるでしょ」
「戻ってくる」
「うん」
「管理指示か」
「そう」
ニーナは、少しだけ視線を落とした。
「次までの管理指示」
「最後じゃないのか」
「最後にしないって言ったでしょ」
その声は小さかったが、強かった。
彼女は紙を革袋へ戻し、それから、空の硝子管を取り出した。
からん、と音がする。
空っぽの音。
ニーナはそれを、しばらく見つめた。
それから、硝子管の口に細い布を巻いた。
青くはない。
診療所の白い布だ。
「印?」
「割れにくくするだけ」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は」
「うちのものだって分かるように」
耳の先が赤い。
俺は何も言えなかった。
言えば、たぶん台無しになる。
ニーナは空の硝子管を革袋に戻した。
「中身は、まだ入れてない」
「ああ」
「だから、戻ってきなさい。次は、最後の一本じゃないやつを渡す」
「分かった」
「返事」
「実行」
「よし」
そこで、診療所の中から居候老人の声が飛んだ。
「ニーナ! 子どもの熱がまた上がった!」
「今行く!」
ニーナは振り返った。
行かなければならない顔だった。
俺は、その背中を見た。
小さい。
だが、いま診療所を支えている背中だった。
「ニーナ」
「何」
「俺は行く」
「うん」
「お前も、ここで戦え」
ニーナは少し驚いた。
それから、笑った。
橋の上でも、粉挽き場でも、洗濯場でもない笑顔だった。
町医者の娘としての笑顔。
少し疲れていて、少し強い。
「うん。行ってくる」
彼女はそう言って、診療所へ戻った。
手は振らなかった。
代わりに、薬箱を一度だけ高く持ち上げた。
俺は革袋を叩いた。
空の硝子管が、からん、と鳴った。
その音が、返事になった。
◇
リンデンを出たのは、昼過ぎだった。
予定よりかなり遅い。
そして、予定よりずっと一人だった。
リューリックはいない。
ニーナもいない。
荷車には、俺とオルドとパン粉。
パン粉は相変わらず俺を信用していない。
オルドは時々こちらを見て、見ていないふりをする。
いい男だ。
たぶん、粉挽き場は人を見る目も挽く。
村外れを過ぎる時、俺は振り返った。
リンデン診療所の屋根が見える。
煙突から、細い煙が上がっている。
その煙の下で、ニーナは今も誰かの熱を見ているのだろう。
俺は行く。
彼女は残る。
負けでも、別れでもない。
ただ、道が分かれただけだ。
そう思った。
そう思おうとした。
思おうとしている時点で、未練がある。
面倒だ。
実に面倒だ。
「ロドさん」
オルドが言った。
「何だ」
「泣くなら、パン粉に見えない方でお願いします」
「泣いてない」
「じゃあ、そういう顔は南風のせいで」
「そうしてくれ」
「はい」
パン粉が耳を動かした。
笑われた気がした。
「パン粉」
俺は言った。
「お前、いい性格してるな」
パン粉は答えなかった。
だが、少しだけ足取りが軽くなった。
腹が立つ。
俺は驢馬にも励まされているのかもしれない。
荷車は南へ進む。
灰柳へ向かう道ではなく、その先、ブリエン街道へ抜ける道へ。
畑の色は冬の終わりで、ところどころに新しい緑が出ている。
道端には、昨日より増えた足跡があった。
荷車の跡。
裸足に近い子どもの足跡。
重い靴の跡。
そして、馬の蹄。
南へ向かうものが増えている。
粉。
薬。
銀。
名前。
人。
全部が、南へ流れている。
俺も、その流れに乗っている。
乗っているというより、また巻き込まれている。
ただ、今回は少しだけ違う。
俺は痛いと言える。
走るなと言われた紙も持っている。
空の硝子管もある。
リューリックはいないが、彼の声はある。
ニーナはいないが、管理指示はある。
それでどこまで行けるか。
正直、あまり自信はない。
だが、進むしかない。
「オルド」
「はい」
「途中で俺が走ろうとしたら止めろ」
「どうやって」
「パン粉に蹴らせろ」
「パン粉は仕事を選びます」
「その仕事は選ばせろ」
「相談しておきます」
パン粉がまた耳を動かした。
本当に相談しているのかもしれない。
俺は笑った。
笑うと脇腹が少し痛い。
「痛い」
声に出した。
誰も返事をしない。
リューリックも、ニーナもいない。
少し遅れて、オルドが言った。
「止めますか」
「いや。まだいい」
「まだ、は危ない言葉だってニーナに言われてます」
「お前まで管理網か」
「粉挽き場は、診療所に借りがありますので」
「そうか」
俺は肩の力を抜いた。
言えば、止まる相手がいる。
それだけで、少し違う。
リューリックがいなくても。
ニーナがいなくても。
人は、少しだけ生きる練習を続けられるらしい。




