第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 ② 診療所の騒ぎ
その時だった。
外で馬のいななきがした。
続いて、荷車の車輪が石を噛む音。
怒鳴り声。
泣き声。
誰かが診療所の扉を叩く。
叩くというより、ぶつかっている。
「ニーナ!」
マルタの声だった。
粉挽き場の女主人の声は、朝の空気を簡単に割った。
「開けな! 街道からまとめて来た!」
ニーナの顔が変わった。
さっきまでの赤さも、迷いも、全部消える。
町医者の娘の顔になる。
「じいさん!」
「聞こえてる」
居候老人は、すでに奥から出てきていた。
動きは遅くない。
年寄りの体に、昔の軍医の速度が一瞬だけ戻っていた。
扉が開く。
寒い空気と一緒に、血と汗と泥の匂いが入ってきた。
荷車が二台。
その後ろに、歩いてきた者たちが数人。
荷台には、男が二人寝かされていた。
一人は腕を深く切っている。
一人は脇腹を押さえている。
端には、小さな子どもを抱いた女。
子どもの顔は赤く、呼吸が浅い。
さらに、白い顔をした老人が荷台の隅で震えている。
どれから診るべきか。
そう考えるより先に、ニーナは動いた。
「腕の人、こっちの寝台! 脇腹の人は床に毛布! 子どもは薬棚の前! 震えてるおじいさん、火の近くに! マルタさん、水と布!」
「分かった!」
「オルドさん、出発は待って!」
「おう!」
俺は立ち上がりかけた。
ニーナの目がこちらを刺した。
「レオン、荷を運ばない!」
「まだ何もしてない」
「顔がしてる!」
「俺の顔、本当に忙しいな!」
居候老人が腕の男を診た。
「動脈は外れてる。だが深い」
「縫う?」
「縫う。お前は子どもを見ろ」
「分かった」
ニーナは子どもの方へ膝をついた。
額に手を当てる。
首に触れる。
瞼を上げる。
呼吸を見る。
母親が泣きそうな顔で言った。
「昨日から熱が下がらなくて、今朝、体が硬くなって」
「いつから食べてない?」
「昨日の昼から、少しだけ」
「水は?」
「飲ませても吐いて」
「分かった。泣いていいけど、手は貸して。ここ、押さえて」
母親は泣きながら頷いた。
泣くことと手を貸すことは、同時にできる。
ニーナはそれを知っている。
俺は、そこでようやく理解した。
これは、出発前の小さな遅れではない。
診療所が、今まさに戦場になった。
ただし、剣ではなく、熱と血と空腹の戦場だ。
マルタが水桶を運び込む。
オルドが荷台から負傷者を下ろす。
俺は何も持つなと言われたので、戸口の邪魔な荷を足で寄せた。
それだけで、ニーナに見られた。
「足でやるなら、ゆっくり!」
「足まで管理されるのか!」
「患者だから!」
すごい。
ここでも負ける。
◇
混乱の中で、ひとりの男が大声を出した。
荷車の横に立っていた商人風の男だ。
上着は少し上等で、靴は泥を嫌う歩き方をしている。
こういう男は最近よく見る。
軽い銀貨を重い顔で出す種類の男だ。
「先にこっちの護衛を診ろ! 金は払う!」
男はレヴォナ軽銀を数枚、机に置いた。
銀貨は、朝の光の中で嫌なほど薄く光った。
「その子どもより、うちの護衛の方が荷を守れる! 急げばブリエンまで間に合うんだ!」
診療所の空気が止まった。
ニーナは子どもの額に布を当てたまま、顔だけを上げた。
怒鳴らない。
低い声だった。
「今、呼吸が浅い子どもが先です」
「金はあると言っている!」
「なら、あとで払ってください」
「何?」
「今は順番の話です。お金の話じゃありません」
商人の顔が赤くなった。
「町医者の娘が、商売の邪魔をするのか」
俺は立ち上がろうとした。
薬箱が飛んできそうな気がした。
だが、飛ばなかった。
代わりに、居候老人が言った。
「商売なら外でやれ」
老人の声は乾いていた。
「ここは診療所だ。金で順番を買う場所ではない」
「だが」
「黙れ」
その一言だけ、軍医だった。
昔、戦場で兵を黙らせた声だ。
商人が一歩下がった。
ニーナは、子どもに薬を少しずつ含ませながら言った。
「レオン」
「何だ」
「その人、外に出して。殴らないで」
「殴ると思われてるのか」
「顔」
「顔め」
俺は商人の前に立った。
左肩は痛い。
剣は抜かない。
殴らない。
今日は口だけだ。
「外へ」
「何だ、お前は」
「便宜上、患者だ」
「患者が命令するな」
「患者だから分かる。診療所で金をちらつかせると、医療者の機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなると、包帯が少しきつくなる」
「ふざけているのか」
「かなり真面目だ。俺は経験者だ」
商人は俺を睨んだ。
俺も睨み返した。
睨み返したつもりだったが、ニーナの声が飛んだ。
「レオン、肩に力入ってる!」
「今それ言うか!」
「入ってる!」
「抜く!」
肩の力を抜いた。
睨みが少し弱くなった。
商人が困惑した。
その隙に、マルタが商人の背中を押した。
「はいはい、外だよ。金で子どもの呼吸は買えないんだ。立ってるだけなら邪魔」
「お前まで」
「粉挽き場では金を見る。診療所では息を見る。場所を間違えるんじゃないよ」
商人は外へ押し出された。
診療所の中に、少しだけ空気が戻った。
子どもの呼吸は、まだ浅い。
だが、さっきより少しだけ落ち着いた。
ニーナは母親に水を少しずつ飲ませるよう指示し、次に老人を見た。
足元がふらついている。
空腹と冷えだ。
「粥」
ニーナが言う。
「粉ならある」
マルタが即答した。
「うちの粉を使いな」
「でも」
「でもじゃない。腹が空くと、人は薬の説明を聞けなくなるんだろ」
ニーナが、一瞬だけ笑った。
「うん」
「なら、粉の出番だ」
マルタは袖をまくった。
粉挽き場の女主人は、診療所でも強かった。
俺は戸口に立ったまま、その光景を見ていた。
血を止める老人。
熱を見るニーナ。
粥を作るマルタ。
水を運ぶオルド。
泣きながら布を押さえる母親。
診療所は狭い。
だが、狭い場所で人が動くと、国より広いものを守れることがある。
俺は、それを見てしまった。




