第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 ① 行けなかった朝
予定というものは、朝に破れる。
夜に立てた予定ほど、朝に弱い。
昨日の夜、俺はたしかに決めた。
明日は一日遅れで南へ向かう。
リューリックが先に開けた道を、ニーナと、マルタの粉袋と、空の硝子管を持って。
荷車に乗り、休みながら進み、痛ければ痛いと言い、走らず、剣を抜かず、夜は寝る。
驚くほど真面目な予定だった。
俺にしては、かなり立派だった。
だから、たぶん駄目だった。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
この朝、俺は学んだ。
医療者との約束は、患者の数に負ける。
そして、道というものは、人が決めた通りには、あまり伸びてくれない。
◇
出発の朝、リンデン診療所はいつもより早く起きていた。
裏庭には薄い霜が残っている。
薬草棚の葉先が白くなり、洗濯紐に干された包帯は、夜の冷気を含んで少し硬そうだった。
東の空は淡く明るい。
村の屋根からは、朝の煙が細く上がっている。
俺は離れの戸口で、革袋を肩にかけた。
肩にかけた瞬間、左肩が小さく文句を言った。
「痛い?」
すぐ横でニーナが言った。
「少し」
「少しじゃなくて」
「中より下」
「よろしい」
「よろしいのか」
「嘘をつかなかったから」
ニーナは記録板に短く書いた。
エルゼ式の影響が、もうすっかり診療所に馴染んでいる。
リューリックがいないのに、俺は記録されている。
大陸は広いが、俺への管理網は広がり続けている。
「それ、持っていくのか」
「持っていく」
「いつまで書く」
「あんたがちゃんと痛いって言えるようになるまで」
「今言っただろ」
「一回で治るなら、薬屋はいらない」
言い返せなかった。
ニーナは俺の革袋を開け、中を確認した。
セラの包帯。
マレーナの薬草袋。
ヴェロニカの止血粉。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
ヴィクトルの青い活字。
エルゼの退院証。
ハインリッヒの栞。
イザベルの代筆券。
そして、空の硝子管。
ニーナはその硝子管を指で軽く触った。
からん、と小さく鳴る。
「入ってる」
「昨日も確認した」
「今日も確認するの」
「管理指示か」
「そう。管理指示」
彼女は真面目な顔で言った。
だが、耳の先は少しだけ赤い。
朝は寒い。
たぶん寒いせいだ。
そういうことにしておく。
居候老人が、診療所の戸口から顔を出した。
白髪頭に寝癖がある。
だが、目はもう起きていた。
「出るのか、都合のいい傷の男」
「出る」
「荷車に乗れ。歩くな。走るな。女にいいところを見せようとするな」
「三つ目だけ、言い方が具体的だな」
「一番危ないからだ」
ニーナが頷いた。
「同感」
「お前まで」
「昨日の訓練でも分かったでしょ。見られてると、あんたの成功率は下がる」
「統計を取るな」
「記録せずとも、うちの記憶だけで十分」
「リューリックみたいなことを言うな」
「少し移ったかも」
「嫌な感染だ」
居候老人が鼻を鳴らした。
「感染なら隔離しろ」
「誰を」
「お前をだ」
「俺か」
「騒ぎの感染源は、だいたいお前だ」
朝からひどい。
だが、否定材料が少ない。
マルタが粉挽き場から貸してくれた荷車は、診療所の前に来ていた。
驢馬は、またパン粉だった。
あの賢く、俺を信用していない驢馬である。
御者は粉挽き場の下働きの少年ではなく、マルタの甥だという中年男だった。
名をオルドと言う。
顔に粉がついていないと、粉挽き場の人間には見えなかった。
だが、手綱の持ち方はうまい。
「ロドさん、荷はそれだけで?」
「ああ」
「怪我人にしては多いね」
「怪我人だから増えた」
「そういうもんですか」
「俺も最近知った」
オルドは笑い、パン粉の首を叩いた。
パン粉は俺を見た。
じっと見た。
信用していない。
明らかに信用していない。
「パン粉」
俺は言った。
「今日は頼むぞ」
パン粉は耳を動かしただけだった。
「こいつ、俺より大人だな」
「たぶんね」
ニーナが言った。
「医療者として同意します」
「同意するな」
◇
出発前の最後の診察が始まった。
診療所の中は、朝の光がまだ浅い。
薬棚の瓶に、薄い金色の線が入っている。
父親の診療所を継いだ娘。
居候の元軍医。
薬草の匂い。
硬い寝台。
ここへ初めて来た時、俺はもっと軽く死にかけていた。
今も十分に壊れているが、少なくとも椅子に座って診られている。
進歩だ。
たぶん。
「肩」
ニーナが言う。
「中より下」
「膝」
「少し」
「脇腹」
「薬箱を受けたところ以外はまし」
「自業自得」
「そこは医療者として少しは反省してくれ」
「患者教育」
「便利な言葉だな」
ニーナは包帯を外し、傷を確認した。
指が近い。
もう慣れたはずだ。
しかし、慣れたら慣れたで、別の落ち着かなさがある。
初めて触れられる時の緊張ではない。
ここを押せば痛いと知っている手が、自分の体に迷わず触れてくる緊張だ。
これはこれで危ない。
「何、変な顔してるの」
「してない」
「してる」
「顔がうるさいだけだ」
「あんたの顔は、ほんと手間がかかるね」
ニーナは少し笑い、包帯を巻き直した。
結び目は昨日よりも小さく、少しだけ柔らかい。
「今日は長く揺られるから、きつくしすぎない。途中で痛みが増えたら、オルドさんを止めて休むこと」
「分かった」
「返事」
「実行」
「よし」
薬箱から小さな包みが三つ出てきた。
一つは炎症を抑える薬。
一つは眠るための軽い薬。
そしてもう一つは、乾燥させた薬草茶だった。
「痛み止めじゃない。痛みを消す薬は、今は渡さない」
「なぜ」
「渡すと、あんたが痛みを隠して動く可能性があるから」
「信用がない」
「半分くらい」
「残り半分は」
「心配」
またそれだ。
この言葉を聞くたびに、胸の奥に少しだけ困ったものが溜まる。
痛いとは違う。
温かいとも違う。
たぶん、面倒だ。
ひどく面倒で、少しだけ大事なものだ。
「それと」
ニーナは小さな紙を一枚出した。
字は彼女のものだった。
薬の名前ではない。
道中の注意書きだった。
一、走らない。
二、剣を抜かない。
三、痛いと言う。
四、途中で休む。
五、女の人にいいところを見せようとしない。
「五番がまたある」
「重要だから」
「俺はそんなに信用がないのか」
「半分くらい」
「残り半分は」
「学習してほしい」
「心配じゃないのか」
「それはもう言った」
ニーナは、少しだけ目を逸らした。
耳の先が、また赤い。
「この紙、オルドさんにも見せておいて。あんたが『まだ平気』って言ったら、だいたい平気じゃないって伝えてあるから」
「俺への包囲網が出発前から完成している」
「患者だから」
「便利すぎる」
俺は紙を受け取り、革袋に入れた。
空の硝子管の隣。
からん、と音がした。
その時はまだ、その紙にもう一行増えるとは思っていなかった。




