表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

110/274

第二十部 町医者の娘と、行けなかった朝の話 ① 行けなかった朝

 予定というものは、朝に破れる。


 夜に立てた予定ほど、朝に弱い。


 昨日の夜、俺はたしかに決めた。


 明日は一日遅れで南へ向かう。


 リューリックが先に開けた道を、ニーナと、マルタの粉袋と、空の硝子管を持って。


 荷車に乗り、休みながら進み、痛ければ痛いと言い、走らず、剣を抜かず、夜は寝る。


 驚くほど真面目な予定だった。


 俺にしては、かなり立派だった。


 だから、たぶん駄目だった。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ロド・カナリ。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 この朝、俺は学んだ。


 医療者との約束は、患者の数に負ける。


 そして、道というものは、人が決めた通りには、あまり伸びてくれない。



 ◇



 出発の朝、リンデン診療所はいつもより早く起きていた。


 裏庭には薄い霜が残っている。


 薬草棚の葉先が白くなり、洗濯紐に干された包帯は、夜の冷気を含んで少し硬そうだった。


 東の空は淡く明るい。


 村の屋根からは、朝の煙が細く上がっている。


 俺は離れの戸口で、革袋を肩にかけた。


 肩にかけた瞬間、左肩が小さく文句を言った。


「痛い?」


 すぐ横でニーナが言った。


「少し」


「少しじゃなくて」


「中より下」


「よろしい」


「よろしいのか」


「嘘をつかなかったから」


 ニーナは記録板に短く書いた。


 エルゼ式の影響が、もうすっかり診療所に馴染んでいる。


 リューリックがいないのに、俺は記録されている。


 大陸は広いが、俺への管理網は広がり続けている。


「それ、持っていくのか」


「持っていく」


「いつまで書く」


「あんたがちゃんと痛いって言えるようになるまで」


「今言っただろ」


「一回で治るなら、薬屋はいらない」


 言い返せなかった。


 ニーナは俺の革袋を開け、中を確認した。


 セラの包帯。


 マレーナの薬草袋。


 ヴェロニカの止血粉。


 ハンナの馬蹄鉄。


 リータの白い布。


 ヴィクトルの青い活字。


 エルゼの退院証。


 ハインリッヒの栞。


 イザベルの代筆券。


 そして、空の硝子管。


 ニーナはその硝子管を指で軽く触った。


 からん、と小さく鳴る。


「入ってる」


「昨日も確認した」


「今日も確認するの」


「管理指示か」


「そう。管理指示」


 彼女は真面目な顔で言った。


 だが、耳の先は少しだけ赤い。


 朝は寒い。


 たぶん寒いせいだ。


 そういうことにしておく。


 居候老人が、診療所の戸口から顔を出した。


 白髪頭に寝癖がある。


 だが、目はもう起きていた。


「出るのか、都合のいい傷の男」


「出る」


「荷車に乗れ。歩くな。走るな。女にいいところを見せようとするな」


「三つ目だけ、言い方が具体的だな」


「一番危ないからだ」


 ニーナが頷いた。


「同感」


「お前まで」


「昨日の訓練でも分かったでしょ。見られてると、あんたの成功率は下がる」


「統計を取るな」


「記録せずとも、うちの記憶だけで十分」


「リューリックみたいなことを言うな」


「少し移ったかも」


「嫌な感染だ」


 居候老人が鼻を鳴らした。


「感染なら隔離しろ」


「誰を」


「お前をだ」


「俺か」


「騒ぎの感染源は、だいたいお前だ」


 朝からひどい。


 だが、否定材料が少ない。


 マルタが粉挽き場から貸してくれた荷車は、診療所の前に来ていた。


 驢馬は、またパン粉だった。


 あの賢く、俺を信用していない驢馬である。


 御者は粉挽き場の下働きの少年ではなく、マルタの甥だという中年男だった。


 名をオルドと言う。


 顔に粉がついていないと、粉挽き場の人間には見えなかった。


 だが、手綱の持ち方はうまい。


「ロドさん、荷はそれだけで?」


「ああ」


「怪我人にしては多いね」


「怪我人だから増えた」


「そういうもんですか」


「俺も最近知った」


 オルドは笑い、パン粉の首を叩いた。


 パン粉は俺を見た。


 じっと見た。


 信用していない。


 明らかに信用していない。


「パン粉」


 俺は言った。


「今日は頼むぞ」


 パン粉は耳を動かしただけだった。


「こいつ、俺より大人だな」


「たぶんね」


 ニーナが言った。


「医療者として同意します」


「同意するな」



 ◇



 出発前の最後の診察が始まった。


 診療所の中は、朝の光がまだ浅い。


 薬棚の瓶に、薄い金色の線が入っている。


 父親の診療所を継いだ娘。


 居候の元軍医。


 薬草の匂い。


 硬い寝台。


 ここへ初めて来た時、俺はもっと軽く死にかけていた。


 今も十分に壊れているが、少なくとも椅子に座って診られている。


 進歩だ。


 たぶん。


「肩」


 ニーナが言う。


「中より下」


「膝」


「少し」


「脇腹」


「薬箱を受けたところ以外はまし」


「自業自得」


「そこは医療者として少しは反省してくれ」


「患者教育」


「便利な言葉だな」


 ニーナは包帯を外し、傷を確認した。


 指が近い。


 もう慣れたはずだ。


 しかし、慣れたら慣れたで、別の落ち着かなさがある。


 初めて触れられる時の緊張ではない。


 ここを押せば痛いと知っている手が、自分の体に迷わず触れてくる緊張だ。


 これはこれで危ない。


「何、変な顔してるの」


「してない」


「してる」


「顔がうるさいだけだ」


「あんたの顔は、ほんと手間がかかるね」


 ニーナは少し笑い、包帯を巻き直した。


 結び目は昨日よりも小さく、少しだけ柔らかい。


「今日は長く揺られるから、きつくしすぎない。途中で痛みが増えたら、オルドさんを止めて休むこと」


「分かった」


「返事」


「実行」


「よし」


 薬箱から小さな包みが三つ出てきた。


 一つは炎症を抑える薬。


 一つは眠るための軽い薬。


 そしてもう一つは、乾燥させた薬草茶だった。


「痛み止めじゃない。痛みを消す薬は、今は渡さない」


「なぜ」


「渡すと、あんたが痛みを隠して動く可能性があるから」


「信用がない」


「半分くらい」


「残り半分は」


「心配」


 またそれだ。


 この言葉を聞くたびに、胸の奥に少しだけ困ったものが溜まる。


 痛いとは違う。


 温かいとも違う。


 たぶん、面倒だ。


 ひどく面倒で、少しだけ大事なものだ。


「それと」


 ニーナは小さな紙を一枚出した。


 字は彼女のものだった。


 薬の名前ではない。


 道中の注意書きだった。


 一、走らない。


 二、剣を抜かない。


 三、痛いと言う。


 四、途中で休む。


 五、女の人にいいところを見せようとしない。


「五番がまたある」


「重要だから」


「俺はそんなに信用がないのか」


「半分くらい」


「残り半分は」


「学習してほしい」


「心配じゃないのか」


「それはもう言った」


 ニーナは、少しだけ目を逸らした。


 耳の先が、また赤い。


「この紙、オルドさんにも見せておいて。あんたが『まだ平気』って言ったら、だいたい平気じゃないって伝えてあるから」


「俺への包囲網が出発前から完成している」


「患者だから」


「便利すぎる」


 俺は紙を受け取り、革袋に入れた。


 空の硝子管の隣。


 からん、と音がした。


 その時はまだ、その紙にもう一行増えるとは思っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ