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第十九部 南へ向かう荷車と、半分だけ抜ける剣の話 ③ 南へ向かう荷車

 午後、俺はもう一度木剣を持った。


 今度は、診療所の裏庭ではなく、リンデン村の外れだった。


 リューリックが先行するなら、俺は最低限、自分の身を守れるか確認しなければならない。


 ニーナは反対した。


 居候老人も反対した。


 マルタは「粉袋より軽い訓練ならいい」と言った。


 意味が分からない。


 結局、条件付きで許可された。


 一、真剣は抜かない。


 二、走らない。


 三、転ばない。


 四、痛いと言う。


 五、いいところを見せようとしない。


 最後がいちばん難しい。


「殿下」


 リューリックが言った。


「はい」


「五番が、殿下にとって最重要でございます」


「分かってる」


「女性が見ていると、成功率が下がります」


「統計を取るな」


「記録せずとも、家令の記憶だけで十分でございます」


「二回目だぞ、それ」


「重要事項は反復いたします」


 ニーナは少し離れた場所で、薬箱を抱えて立っている。


 ノーラもいた。


 代書屋へ戻る前に、返書を書き終えるまで待つらしい。


 つまり、見られている。


 かなり見られている。


 成功率が下がる。


 悔しいが、リューリックは正しい。


「では、開始します」


 リューリックが木剣を構えた。


 朝より少し速い。


 俺も構える。


 肩に痛みはある。


 だが、朝より体が温まっている。


 一撃目。


 俺は受けずに足で避けた。


 右へ半歩。


 膝が少し鳴る。


 倒れない。


 二撃目。


 下から。


 木剣を合わせる。


 肩に響く。


「痛い」


 俺は言った。


 言ったぞ。


 ちゃんと言った。


 ニーナが即座に記録板へ書く。


 なんだその速さは。


 三撃目。


 リューリックが一歩踏み込む。


 俺は反射で払おうとした。


 駄目だ。


 肩を使う。


 体が勝手に昔の動きを探す。


 俺は歯を食いしばり、払わず、身を落とした。


 左肩ではなく、膝で逃げる。


 地面が近い。


 土の匂い。


 靴の裏。


 リューリックの木剣が頭の上を通った。


 かわした。


 かわした、と思った瞬間、右膝が文句を言った。


「痛い」


 また言った。


 ニーナが書く。


 ノーラもなぜか見ている。


 やめろ。


 記録するな。


 俺は見世物ではない。


 いや、見世物に近い仕事をしてきた。


 反論材料が弱い。


「ここまで」


 リューリックが言った。


「まだ」


「ここまで」


 同じ声。


 逆らえない声。


 俺は木剣を下ろした。


 息が上がっている。


 だが、立っている。


 傷は開いていない。


 肩は痛い。


 膝も痛い。


 でも、剣の前で体が逃げ方を思い出した。


 それは、かなり大きかった。


 ニーナが駆け寄ってくる。


「肩」


「中」


「膝」


「少し上」


「息」


「荒い」


「嘘は?」


「ない」


「よし」


 彼女は俺の肩と膝を確認した。


 指が速い。


 顔が近い。


 汗が額に少し滲んでいる。


 俺の汗ではない。


 ニーナの汗だ。


 彼女も緊張していたのだ。


「どうだ」


 俺は訊いた。


「一日遅れなら、移動できる」


 ニーナは言った。


「ただし、荷車。長歩きは禁止。剣は抜かない。戦わない。痛いと言う。途中で休む。薬草茶を飲む。夜は寝る」


「条件が多い」


「生きてブリエンに着きたいなら」


「着きたい」


「じゃあ守る」


「分かった」


 リューリックが、静かにこちらを見ていた。


「殿下」


「何だ」


「私は本日中に灰柳へ戻り、そこからブリエン東口へ先行します」


「早いな」


「銀貨と荷は、待ってくれません」


「俺も待たないぞ」


「一日だけお待ちください」


「……一日だけだ」


「はい」


 それは、俺たちにとって、小さくない決定だった。


 別行動。


 まだ一日。


 だが、最初の一日だ。


 この先、もっと長く分かれることがあるかもしれない。


 シーロ。


 ブリエン。


 レヴォナ。


 王国中央。


 リュカリオンの名。


 大陸は、二人で肩を並べるには広すぎる。


 そういう現実が、少しずつ見えてきた。


 俺は嫌だった。


 でも、必要なのも分かった。


 分かるのは、時々つらい。


「リューリック」


「はい」


「お前、勝手に死ぬなよ」


「殿下にだけは言われたくございません」


「そうだな」


「ですが、承知しました」


 リューリックは、いつものように頭を下げた。


「殿下も、勝手に死にかけないでください」


「それは難しいな」


「難しくしないでください」


 ニーナが横から言った。


「うちが見る」


「俺を?」


「そう」


「一日中?」


「必要なら」


「それは少し嬉しい」


 薬箱の角が、俺の脇腹に入った。


「痛い!」


「変なこと言う患者への処置」


「今のはだいぶ軽い冗談だろ!」


「軽い銀貨みたいな冗談は受け取りません」


 リューリックが、珍しく少し笑った。


 ノーラも笑った。


 俺だけが脇腹を押さえた。


 別行動の重さが、少しだけ軽くなった。


 ニーナは、たぶんそれを分かってやった。


 たぶん。


 いや、半分くらいは本気で殴った。



 ◇



 夕方、リューリックは灰柳へ向けて出発した。


 荷は少ない。


 油紙に包んだ写し。


 テオへの返書。


 レヴォナ軽銀の見本。


 短剣。


 水袋。


 そして、俺が強引に持たせた粉袋。


「いらない」と言われたが、持たせた。


 マルタの粉だ。


 腹が空けば判断が軽くなる。


 ニーナが言ったことだ。


 俺は覚えている。


「殿下」


「何だ」


「粉袋が、たいへん庶民的な餞別です」


「文句を言うな」


「言っておりません」


「顔が言ってる」


「殿下の顔読み癖が感染しております」


「いいことだ」


「職務上、やや困ります」


 リューリックは、荷を背負った。


 夕方の光が、彼の横顔を薄く照らしている。


 俺は、その姿を見て少しだけ胸が詰まった。


 この男は、俺が死にかけた時、必ず近くにいた。


 俺が馬鹿なことをした時も。


 惚れた時も。


 逃げた時も。


 殴られた時も。


 今、その男が先に行く。


 一日だけだ。


 たった一日。


 なのに、胸の奥が妙に静かになった。


「リューリック」


「はい」


「道を開けておけ」


「承知しました」


「俺が行くまで、勝手に話を終わらせるな」


「殿下が到着されるまでに、交渉の面倒な部分だけ整えておきます」


「全部面倒だろ」


「はい。ですので、殿下の出番も残るかと」


「ならよし」


 ニーナが、小さな布包みをリューリックに渡した。


「これ、痛み止めじゃないです。疲れた時の薬草茶。眠くなりすぎない方」


「ありがとうございます、ニーナ殿」


「レオンより先に倒れないでください」


「それは、なかなか難度の高い比較でございますね」


「ですよね」


「二人で納得するな」


 リューリックは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「では、先に」


「ああ」


「殿下」


「何だ」


「一日です」


「ああ。一日だ」


 リューリックは歩き出した。


 灰柳へ向かう道へ。


 その先のブリエン東口へ。


 さらに南の海の匂いがする場所へ。


 シーロ行きの荷が動く場所へ。


 俺は見送った。


 背中が小さくなる。


 夕方の道に、彼の影が長く伸びる。


 その背中を見ながら、俺は思った。


 俺も行く。


 一日遅れで。


 必ず。


 そのために、今夜は寝る。


 信じられないほど地味な決意だった。


 だが、たぶん今の俺に必要な決意だった。



 ◇



 夜、リンデン診療所の離れで、俺は寝台に座っていた。


 ニーナが包帯を確認する。


 今日だけで何度目だろう。


 数えるのをやめた。


「肩は?」


「中より下」


「膝は?」


「少し」


「脇腹は?」


「薬箱のせいで少し」


「自業自得」


「医療者の攻撃を自業自得にするな」


「変なこと言うから」


 ニーナは包帯を直し終えると、俺の革袋を見た。


「明日、ちゃんと持っていくんでしょ」


「持っていく」


「空の硝子管も?」


「入ってる」


「確認」


「お前、俺を信用してないな」


「半分くらい」


「残り半分は」


「心配」


 またそれだ。


 心配。


 最近、その言葉が俺の周りをよく歩いている。


 最初は面倒だった。


 今も面倒だ。


 でも、少しだけ、悪くない。


 ニーナは革袋の中を覗き、空の硝子管を見つけると、ほんの少しだけ安心した顔をした。


 それから、ふと表情を変えた。


「……ねえ」


「何だ」


「レオンって、ほんとは字、綺麗なの?」


 イザベルの話を覚えていたのだ。


 当然だ。


 ニーナは、覚える女だ。


「どうだろうな」


「顔」


「読むな」


「読むよ」


 ニーナは、俺の隣に腰を下ろした。


 近い。


 近いが、今日は不思議と逃げる気にならなかった。


「うち、あんたのこと、知らないこと多いよね」


「だろうな」


「でも、怪我の場所は少し分かる」


「ああ」


「痛い時の顔も少し分かる」


「ああ」


「嘘ついてる時の顔も、少し分かる」


「それは困る」


「困ればいい」


 ニーナは笑わなかった。


 真面目な顔だった。


「名前のことは、まだ聞かない」


 俺は、黙った。


「聞かないのか」


「聞かない。聞いたら、あんたが嘘をつくかもしれないから」


「信用がないな」


「違う」


 ニーナは、空の硝子管を指で軽く触った。


「嘘をつかせたくない」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 肩とは違う。


 脇腹とも違う。


 もっと面倒な場所だ。


「ニーナ」


「何」


「俺は、いつか言う」


「うん」


「今は言えない」


「うん」


「それでも、明日一緒に来るのか」


「行くよ」


「なぜ」


「患者だから」


「それだけか」


「それだけじゃないけど」


 ニーナは、少しだけ耳を赤くした。


「それは、今は言わない」


「ずるいな」


「あんたに言われたくない」


 俺は笑った。


 小さく。


 あまり笑うと脇腹が痛む。


 ニーナも少し笑った。


 外では、リンデンの夜が静かに降りていた。


 リューリックは、もう灰柳への道を歩いている。


 テオは、ブリエン東口で紙と銀を見ている。


 レイラは、どこか遠い海の島で、名前の紙を見ている。


 俺はここで、空の硝子管を持っている。


 みんな別の場所にいる。


 それでも、同じ線の上にいる。


 青い細線か。


 軽い銀か。


 売られる名前か。


 あるいは、まだ見えない海への道か。


 俺には分からない。


 ただ、一つだけ分かる。


 明日、俺は歩く。


 走らない。


 たぶん。


 できれば。


 ニーナがじっと見ている。


「今、走ること考えたでしょ」


「考えてない」


「顔」


「俺の顔、もう寝ろ」


 ニーナは薬草茶を差し出した。


「飲んで寝る」


「はい」


「返事だけじゃなくて」


「実行」


「よし」


 俺は薬草茶を飲んだ。


 苦い。


 だが、温かい。


明日、俺は一日遅れで南へ向かう。

リューリックが先に開けた道を、ニーナと行くはずだった。


その時の俺は、まだ知らなかった。

医療者の約束は、いつだって患者の数に負ける。


そしてリンデン診療所には、その夜遅く、もう一台の荷車が来る。



 ──第十九話 了


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