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第十八部 灰柳の代書人と、売られる名前の話 ④ イザベルの紙

 写しの最後に、リューリックの指が止まった。


 帳面の端。


 青い細線の横に、別の記号があった。


 円ではない。


 目でもない。


 ただ、古い国名を略したような文字。


 ひどく崩れている。


 だが、俺は見た瞬間、喉が詰まった。


 リュ。


 それだけに見えた。


 リュカリオンのリュ。


 偶然かもしれない。


 別の言葉かもしれない。


 俺の目が、勝手に拾っただけかもしれない。


 それでも、心臓が嫌な音を立てた。


 リューリックも、見ていた。


 彼の表情は変わらない。


 だが、指先が紙の端を押さえる力だけ、ほんの少し強くなった。


 ニーナが気づく。


「どうしたの」


「何でもない」


 俺が言うと、ニーナの目が細くなった。


「何でもない顔じゃない」


「顔を読むな」


「読むよ。患者だから」


 リューリックが、静かに口を挟んだ。


「古い略号の可能性がございます。今は断定できません」


「何の略号?」


「分からないものは、分からないまま写します」


 その言い方は、エルゼから学んだように聞こえた。


 書くことで守る。


 書きすぎないことで守る。


 ニーナは不満そうだったが、黙った。


 イザベルは、その反応を見ていた。


「その略号に、心当たりがあるのですね」


「ない」


 俺は即答した。


 下手な即答だった。


 イザベルは何も言わなかった。


 言わないことで、分かったと言っている顔だった。


 代書人というのは、余白を読む。


 厄介な職業だ。


 写しが終わると、イザベルは紙を油紙に包んだ。


「これをブリエン東口のグラント商会へ」


「テオにか」


「知っているのですか」


「少しな」


「なら、早い。グラント商会なら、紙を隠して動かせます」


 リューリックが頷いた。


「王国中央へ出す前に、ブリエン側で見るべきですね」


「王都は?」


 ニーナが訊く。


「王都へ行けば、公式にはなります」


 イザベルが答えた。


「ただし、公式になった瞬間、誰が見るかも選べなくなります」


「紙は危ないな」


 俺が言うと、彼女は頷いた。


「燃えるし、残るし、誰かを動かします」


「テオみたいなことを言う」


「商人は、紙の危なさを知っています」


 窓の外で、灰柳の枝が揺れた。


 焦げた幹。


 灰色の枝。


 小さな芽。


 死んだようで生きている木。


 名前も、似ているのかもしれない。


 売られたようで、まだ誰かの中に生きている。


 奪われたようで、どこかで芽を出す。


 俺は、革袋の中の青い活字を思い出した。


 真。


 真実の真。


 名前を売る者がいるなら、名前を戻す者も必要になる。


 そんなことを考えた瞬間、自分で少し嫌になった。


 大きいことを考えると、だいたい痛い目を見る。


 だが、見てしまったものは、もう見なかったことにできない。



 ◇



 灰柳を出る前、イザベルは俺に一枚の小さな紙を渡した。


「これは?」


「代筆券です」


「代筆券?」


「読み書き一行分。銅貨三枚相当」


「なぜ俺に」


「あなたの字は危険そうなので」


「字が汚いという意味か」


「いいえ。綺麗に書ける人が、わざと汚している字は、普通の悪筆より目立ちます」


 俺は黙った。


 リューリックも黙った。


 ニーナだけが、俺とイザベルを交互に見た。


「そうなの?」


「さあな」


「今の顔、さあな、じゃないよ」


「俺の顔は信用するな」


「信用しなくても読める時がある」


 イザベルは、俺の手元ではなく、俺の目を見た。


「王族や貴族の字は、線の止め方に癖が出ます。軍の書記の字も、商家の帳簿字も、修道院の写本字も違う。傭兵の字は、もっと用が済めばいい字です」


「俺の字は、用が済まないくらい汚いぞ」


「だから不自然なのです。用が済まない字を書いてまで、何かを隠している」


 リューリックが、小さく息を吐いた。


「代書人とは、本当に厄介でございますね」


「紙を見る仕事ですから」


 イザベルはそう言って、代筆券を俺の手に押しつけた。


 薄い紙なのに、妙に重い。


「名前を書く時は、誰かに読める字で書いてください。読めない名前は、消えやすい」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 レオン・ヴァン・リュカリオン。


 今は書けない名。


 でも、いつか書くなら。


 読める字で書かなければならない。


 そう思った。


 灰柳の下で、捕まえた男たちは荷運びたちに縛られていた。


 領主の代官所へ送るらしい。


 だが、どこまで調べられるかは分からない。


 軽い銀。


 売られる名前。


 青い細線。


 そして、リュに見えた略号。


 一日で拾うには、多すぎる。


 リューリックは油紙の包みを革袋ではなく、自分の内ポケットに入れた。


「それは俺の革袋に入れないのか」


「殿下のお懐は、すでに記念品、薬、記録、墓標、管理指示で混雑しております」


「言い方」


「これは、現時点では私が持ちます」


「重いか」


「はい」


 リューリックは短く答えた。


「紙としては軽い。名としては重いです」


 俺は頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 ニーナが、そっと俺の袖を引いた。


「帰ろう。肩、冷えてる」


「ああ」


「帰ったら診る」


「またか」


「また」


「痛くないと言ったら?」


「顔を読む」


「逃げ場がない」


「患者だから」


 俺たちは荷車へ戻った。


 パン粉は、相変わらず俺を信用していない顔をしていた。


 荷台に乗る時、俺は少しよろけた。


 ニーナが袖を掴む。


 今度は早かった。


 声をかける前に支えられた。


「危ない」


「悪い」


「……あんた、今日はちゃんと走らなかった」


「褒めてるのか」


「半分くらい」


「残り半分は」


「心配」


 前にも聞いた言葉だった。


 でも、今日は少し違って聞こえた。


 俺は何も言わずに荷台へ座った。


 リューリックが手綱を取る。


 イザベルが、灰柳の下からこちらを見送っていた。


 手は振らない。


 代わりに、定規を軽く掲げた。


 代書人の別れとしては、たぶんあれが正しいのだろう。


 荷車が動き出す。


 灰柳の分岐が、少しずつ遠ざかる。


 銀貨が軽い。


 粉が買われる。


 名前が売られる。


 紙が動く。


 そして、どこかで誰かが、その紙に別の人生を着せられる。


 俺は革袋に手を置いた。


 中で、空の硝子管が小さく鳴った。


 からん。


 空っぽの音。


 だが、今日はその音が、名前を呼ぶ前の息みたいに聞こえた。



 ──第十八話 了


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