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第十八部 灰柳の代書人と、売られる名前の話 Another Side:レイラ

 アルストラ島の朝は、海の匂いがした。


 塩。


 魚。


 濡れた縄。


 乾ききらない木箱。


 そして、遠い国から来た紙の匂い。


 レイラ・ヴァン・リュカリオンは、島の北側にある小さな倉で、古い名簿を見ていた。


 今の名は違う。


 島では、別の名で呼ばれている。


 その名に返事をすることにも、ずいぶん慣れた。


 けれど、本当の名は消えない。


 呼ばれない名ほど、胸の奥で重くなる。


 机の上には、三つの帳面があった。


 一つは、アルストラへ逃げてきた旧リュカリオン人の名簿。


 一つは、北方から流れてきた商人の通行控え。


 一つは、最近、ブリエン方面の海商から渡された写し。


 その写しの端に、青い細い横線が引かれていた。


 斜め三本ではない。


 ヴィクトルの線ではない。


 だが、似ている。


 似せている。


 それだけで、レイラは嫌な予感を覚えた。


「姫様」


 背後の老女が言った。


 島では、その呼び方は禁じている。


 けれど、二人きりの時だけ、老女は時々そう呼ぶ。


 叱るには、老女の背中が少し丸すぎた。


「その呼び方は、今はやめて」


「では、お嬢」


「それも少し違う」


「では、いつもの名で」


「そうして」


 老女は微笑んだ。


 その笑みは、幼い頃に見た宮廷の女官たちの笑みとは違う。


 島の風に削られ、塩に慣れた笑みだった。


「その紙が、気になりますか」


「ええ」


 レイラは写しを指で押さえた。


「名前が売られている」


「名前を?」


「死んだ人、行方不明の人、戻らない人。そういう人の名前を、通行札や荷札に着せているみたい」


「ひどいことを」


「ひどい。でも、買う人がいるだけじゃない。売る人もいる。売らなければ粥が買えない人もいる」


 レイラは、そこで言葉を止めた。


 正しさは、海の上ではよく揺れる。


 港に着くまでは、真っ直ぐ立っているつもりでも、足元はずっと動いている。


 リュカリオンが滅びてから、彼女はそれを知った。


 正しさだけでは、人は守れない。


 でも、正しさを手放すと、今度は何を守っているのか分からなくなる。


 レイラは、名簿の行を追った。


 旧リュカリオン北方兵。


 宮廷書庫補助。


 馬丁。


 鍛冶見習い。


 洗濯係。


 乳母の甥。


 名前の横に、生死不明、行方不明、海路確認、という短い文字が並ぶ。


 その中に、兄の名はない。


 レオン・ヴァン・リュカリオン。


 ない。


 ないことに、ほっとする。


 ないことに、絶望する。


 どちらも本当だった。


「兄さんの名は、まだない」


 レイラは小さく言った。


 老女は何も言わなかった。


 言わないことに慣れている人だった。


 海鳥が鳴いた。


 倉の外で、若い男が魚箱を運ぶ声がする。


 島の日常は続く。


 名簿を見ている者の胸がどれだけ重くても、港では魚が腐る前に運ばなければならない。


 それが生活だった。


 レイラは、青い細線の紙を別の封に入れた。


「ブリエンへ返事を出します」


「何と」


「名前を買っている者を追う。けれど、名前を売った者を先に責めないで、と」


「甘いと言われますよ」


「言われるでしょうね」


「それでも?」


「ええ」


 レイラは窓の外を見た。


 アルストラの海は、朝の光を受けて鈍く光っている。


 遠い大陸のどこかで、誰かが名前を売っている。


 遠い大陸のどこかで、誰かがまだ偽名で生きている。


 もし兄が生きているなら。


 もし、まだどこかで別の名を使っているなら。


 その名が、誰かに買われる前に。


 その本当の名を、自分の手で取り戻してほしい。


 レイラは筆を取った。


 最初の一行に、こう書いた。


 名前は、商品ではない。


 書いてから、少しだけ手が震えた。


 その言葉が、あまりにも自分に返ってきたからだ。


 レイラもまた、別の名で生きている。


 商品ではない。


 けれど、隠している。


 隠している名前と、売られる名前の間に、どれほどの違いがあるのか。


 彼女はまだ、答えを持っていなかった。


 だから、二行目を書いた。


 それでも、本人の手に戻すべきものだ。


 海風が、窓から入った。


 紙の端が揺れる。


 青い細線が、ほんの少しだけ波のように見えた。


「兄さん」


 レイラは、誰にも聞こえない声で言った。


「生きているなら、まだ名前を売らないで」


 返事はない。


 ただ、海鳥がもう一度鳴いた。


 そして、アルストラ島の朝は、何事もなかったように続いていった。



 ──Another Side 了


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