第十八部 灰柳の代書人と、売られる名前の話 ③ 売られる名前
代書屋の奥で、さらに話を聞くことになった。
表の部屋ではまずい。
窓の外の男たちは、まだ完全には去っていない。
奥の部屋は狭かった。
帳面棚と、古い椅子と、炭火鉢があるだけだ。
椅子は二つ。
俺は座らされた。
ニーナも座れと言われたが、彼女は薬箱を抱えて立った。
リューリックは立つ。
イザベルも立つ。
結果、椅子の一つが余った。
「リューリック」
「何でございましょう」
「椅子が余ってるぞ」
「今は退ける必要のない椅子でございます」
「エルゼ式か」
「はい」
ニーナが薬箱を少しだけ抱え直した。
「……そのエルゼさん、椅子も見るんだ」
「見る。桶も見る。痛みも見る。記録もする」
「ふうん」
平らな声。
ただ、さっきより刺が少ない。
彼女は、少しずつ他の女たちの名前を、自分の中で配置しているのかもしれない。
それはそれで、怖い。
俺の革袋の中身が、いつか査問にかけられる気がする。
イザベルが、棚から薄い帳面を一冊取り出した。
「これは、公式の写しではありません」
「私的帳面か」
俺が言うと、彼女は少し目を細めた。
「よく知っていますね」
「最近、私的に記録する女が周りに多い」
ニーナの薬箱が、またかちりと鳴った。
「誰とは言ってない」
「音も鳴らしてない」
「鳴った」
「薬箱が勝手に鳴ったの」
イザベルは帳面を開いた。
「名前写しの買い手は、いつも軽い銀を使います。レヴォナ軽銀が多い。たまに削れたグランデル小銀。重い銀は出しません」
「なぜ」
「名前に重い銀を払いたくないからでしょう」
「嫌な言い方だ」
「嫌な商売です」
帳面には、いくつかの名前が並んでいた。
リヴェン伯国から流れてきた者。
アルムロイト東の難民。
グランデル帝国との国境で消えた兵。
王国内で病死した子ども。
その横に、荷札の番号。
さらに、青い細線の有無。
俺は、そこから目を逸らしたくなった。
逸らせなかった。
「この名は、本当に売られたのか」
「全部ではありません。売られそうになった名も含みます」
「止めたのか」
「止められたものだけ」
イザベルは、帳面の端を指で押さえた。
「止められなかったものもあります」
ニーナが小さく言った。
「どうして売るの」
責める声ではなかった。
ただ、痛そうな声だった。
イザベルは答えた。
「粥が必要だからです」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
名前を売る者が悪い。
そう言うのは簡単だ。
だが、薬を買う銀がない。
粉を買う銅貨がない。
子どもが熱を出している。
死んだ夫の名なら、もう本人は困らない。
そう言われた時、人はどこまで正しくいられるのだろう。
ニーナの顔が、少し青くなっていた。
診療所で「金、なくても診ます」と書く娘には、こういう話は重い。
金がなくても診る。
でも、薬草は金で買う。
粉も金で買う。
金が病気になると、優しさだけでは足りなくなる。
「ニーナ」
俺は声をかけた。
「何」
「座れ」
「平気」
「平気じゃない顔だ」
「患者に言われたくない」
「今日は俺が悪い見本じゃない。少しだけ座れ」
ニーナは、少し迷った。
それから、余っていた椅子に座った。
リューリックが、椅子の脚の位置をほんの少し直した。
ニーナはそれに気づいて、少しだけ笑った。
「エルゼさん式?」
「はい」
「……いいね」
「ありがとうございます」
俺は、少しだけ面白くない。
だが、ニーナが座ったので、まあいい。
俺は心が狭いが、命よりは広い。
たぶん。
◇
騒ぎは、突然起きた。
表の部屋で、紙棚が倒れる音がした。
続いて、短い悲鳴。
イザベルの顔が変わる。
「帳面」
リューリックがすでに動いていた。
俺も立とうとした。
ニーナの手が、俺の袖を掴む。
「走らない」
「でも」
「走らない」
「……はい」
すごい。
俺は止まった。
自分でも驚いた。
言いつけを守った。
成長だ。
いや、単に袖を掴まれていたからかもしれない。
表へ出ると、男が一人、帳面を抱えて外へ走ろうとしていた。
灰柳の下にいた男だ。
もう一人は、代書屋の若い手伝いを押さえている。
手伝いの少女が、紙をばらまいていた。
青い細線の荷札が数枚、床に落ちている。
「止まれ!」
俺は叫んだ。
男は止まらない。
当たり前だ。
叫んで止まる泥棒なら、泥棒にはならない。
リューリックが入口を塞ぐ。
一人目は短剣を抜いた。
刃が光る。
俺は走り出しそうになった。
ニーナが、俺の袖をさらに強く掴んだ。
「実行」
「今それ言うか」
「今言う」
俺は歯を食いしばった。
走らない。
跳ばない。
斬らない。
じゃあ何をする。
喋る。
俺の今日の仕事だ。
「おい、灰柳の皆さん!」
俺は代書屋の外へ向かって叫んだ。
「名前泥棒だ! 粉泥棒よりたちが悪いぞ! 捕まえたら、マルタの粉袋より重い話が聞ける!」
外にいた荷運びの男たちが振り返った。
宿屋の女将が顔を出す。
井戸端の老人が杖を持ち上げる。
分岐にいた子どもが、「名前泥棒だって!」と叫んだ。
言葉は、時々、短剣より速い。
男の足が鈍った。
その一瞬で、リューリックが手首を打った。
短剣が落ちる。
イザベルが机の下から、厚い木の定規を取り出した。
定規で男の膝を打つ。
鈍い音。
男が崩れた。
「代書人の武器、定規なのか」
「線を引く道具です」
イザベルが息を切らしながら言った。
「今日は人も止めました」
もう一人の男は、手伝いの少女を突き飛ばして裏口へ向かった。
ニーナが動いた。
俺の袖を離し、薬箱を抱えて半歩前へ出る。
「ニーナ!」
「走らない!」
「お前が走るな!」
「走ってない!」
確かに走ってはいない。
薬箱を床に滑らせたのだ。
木箱が男の足元へ滑る。
男の靴が引っかかる。
見事に転んだ。
顔面から床へ。
痛そうだった。
「医療器具で攻撃したぞ」
「滑っただけ」
「薬箱がか?」
「床が悪い」
ニーナは真顔だった。
俺は、少し感動した。
この子は強くなっている。
悪い方向にも少し。
リューリックが男を押さえ、外から荷運びたちが駆け込んできた。
灰柳の小さな代書屋は、紙と粉と人でいっぱいになった。
俺は走らなかった。
跳ばなかった。
傷も開かなかった。
その代わり、声だけでかなり疲れた。
「ニーナ」
「何」
「俺、走らなかったぞ」
「えらい」
「もっと褒めろ」
「あとで」
「今がいい」
「患者は静かにして」
「はい」
やはり負けた。
◇
捕まえた男たちは、何も喋らなかった。
だが、持っていたものは喋った。
盗もうとした帳面。
青い細線の荷札。
レヴォナ軽銀が入った小袋。
そして、数枚の通行札写し。
そこには、死んだ者の名前があった。
少なくとも、イザベルはそう言った。
「この名は、先月、熱病で死んだ子です」
彼女は一枚を指した。
「この名は、リヴェンから流れてきて、王都へ向かったまま戻っていない男。この名は、リンデンの外れで亡くなった老女。全部、使える紙に変えようとしている」
「使える紙」
ニーナの声が震えた。
「人の名前を、道具みたいに」
「道具にする者がいるのです」
イザベルは言った。
悔しさが声の底にあった。
「私は代書人です。名前を書いて飯を食べています。だから、名前を書けない人から名前を奪う商売を見ると、腹が立つ」
「止めるのか」
俺が訊くと、彼女は少し笑った。
「止められる分だけ」
「全部じゃない」
「全部止めると、私が先に消えます」
正直だった。
正直すぎて、少し痛い。
世界は、正しさだけで動かない。
正しさだけで動こうとした者から潰れる。
俺はそれを知っている。
カミラも、たぶん今ごろどこかで知っている。
ニーナは、そのことをまだ全部は知らない。
でも、今日少し知ってしまった。
「イザベル」
リューリックが言った。
「この帳面を、私たちが預かることは可能ですか」
「無理です」
「理由は」
「私が消えます」
「では、写しは」
「時間が要ります」
「どの程度」
「一刻。手伝いがいれば半刻」
リューリックは俺を見た。
俺は首を振った。
「俺は、ロド・カナリとしては字が汚い」
「正確には、汚く書いておられます」
「そこは黙って流せ」
「殿下の本来の筆跡は、傭兵としては整いすぎます」
「それをここで言うな」
イザベルが顔を上げた。
「……整いすぎる筆跡を、わざと崩しているのですか」
「そういう趣味がある」
「趣味の崩し方ではありません。育ちのいい字を、あとから泥で汚している」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
俺は笑おうとして、失敗した。
リューリックが、たいへん静かに息を吐く。
「代書人とは、厄介でございますね」
「紙を見る仕事ですから」
イザベルは、何でもないことのように言った。
何でもないはずがない。
俺の手ではなく、俺が隠しているものの端を見た顔だった。
ニーナが手を上げた。
「うち、薬の帳面なら書ける」
「では、お願いできますか」
イザベルが言った。
ニーナは少しだけ緊張した顔をした。
「名前の写しでしょ」
「はい」
「間違えたら、困るよね」
「困ります」
「じゃあ、ゆっくり書く」
「それが一番です」
ニーナは机に座った。
薬箱ではなく、筆を持つ。
少し不慣れだ。
でも、目は真剣だった。
イザベルが読み、ニーナが書く。
リューリックが確認し、俺が外の様子を見る。
俺が外を見る。
走らない。
戦わない。
口だけ出す。
今日の俺は、かなり我慢している。
誰か褒めてほしい。
ニーナがちらりとこちらを見た。
「ちゃんと座ってて」
「まだ何もしてない」
「顔がもう立ちそう」
「俺の顔は本当に忙しいな」
イザベルが少し笑った。
「良い患者ですね」
「どこがだ」
「周りに止める人が多い」
「俺本体は?」
「本体は要観察です」
「代書人にも診断された」




