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第十八部 灰柳の代書人と、売られる名前の話 ② 灰柳の代書屋

 灰柳の分岐に着いたのは、昼前だった。


 灰色の柳は、思ったより大きかった。


 幹の半分が黒く焼け、枝はねじれ、葉はほとんどない。


 それでも生きている。


 枯れたようで、枝先に小さな芽があった。


 見た目よりしぶとい。


 少し親近感が湧いた。


「殿下」


「何だ」


「木に共感する顔をなさらないでください」


「なぜ分かる」


「殿下は、折れかけているものを見ると、だいたい少し身内の顔をされます」


「やめろ。急に刺すな」


「失礼いたしました」


 灰柳の下には、古い石の道標があった。


 西、王都方面。


 南、ブリエン街道。


 東、リンデン。


 北東、旧山道。


 道標の字は摩耗している。


 だが、南の矢印だけ、新しく墨が入っていた。


 誰かが最近塗り直したのだ。


 荷を南へ誘導するために。


 ブリエンへ。


 その先の海へ。


 シーロへ出る道へ。


 少なくとも、そう見せるために。


「ここか」


「はい」


 リューリックは、昨夜の紙片を取り出した。


 レヴォナ。


 ブリエン東口。


 灰柳。


 リンデン粉。


 青い細線。


 灰柳の文字は、いま目の前にある分岐と繋がった。


 小さな繋がりだ。


 だが、小さいからこそ見落とされる。


 見落とされたものは、よく動く。


「まず、代書屋を見ましょう」


 リューリックが言った。


「荷置き小屋じゃなくて?」


「荷は、最後には紙になります。紙を見た方が、荷の嘘は早く分かります」


「エルゼみたいなことを言う」


「良い手法は採用します」


 ニーナが小さく反応した。


「エルゼさん?」


「ああ。病棟記録係だ」


「ふうん」


 声が少し平らになった。


 しまった。


 俺は学んでいない。


 いや、学んでいるが、口が先に出る。


 ニーナは薬箱の留め金をかちりと鳴らした。


「その人にも、ちゃんと怒られたの」


「怒られてはいない。記録された」


「記録」


「痛いと言えるようにされた」


 ニーナは、ほんの一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ表情を緩めた。


「それは、いい人だね」


「だろう」


「でも、うちの硝子管もちゃんと入ってる?」


「入ってる」


「ならいい」


 ならいい、ではない顔をしていた。


 可愛い。


 言うと薬箱が飛んでくるので、言わない。


 俺も少しは成長している。



 ◇



 灰柳の代書屋は、分岐宿の隣にあった。


 小さな建物だ。


 扉の上に、割れた板看板が吊るされている。


 通行札写し。


 荷札記入。


 名前代筆。


 読み書き一行銅貨三枚。


 中へ入ると、紙の匂いがした。


 湿った紙。


 乾いた紙。


 油紙。


 古い帳面。


 それに、少しだけ黴の匂い。


 机の向こうには、背の低い女がいた。


 年は三十代半ばくらい。


 髪は黒く、後ろで低くまとめている。


 左目の下に小さな黒子。


 指先には、インクの染み。


 名前は、イザベルと言った。


 愛想はない。


 だが、目はよく動く。


 紙を見る目だ。


「通行札ですか。荷札ですか。代筆ですか」


 こちらが名乗る前に、彼女は言った。


「人を見る前に用件を見るのか」


「人は嘘をつきます。用件も嘘をつきます。でも、先に用件を聞く方が少し早い」


「いい代書人だな」


「良いかどうかは支払い次第です」


 ニーナが俺の後ろで小さく呟いた。


「現実的」


「診療所と似てるな」


「うちは金なくても診る」


「そこが違う」


「かなり違う」


 イザベルは、俺たちを順番に見た。


 包帯のある俺。


 荷を持つリューリック。


 薬箱を抱えたニーナ。


 そして、リューリックの手にある紙片。


 そこで目が止まった。


「それは、うちの紙ではありません」


「まだ見せていない」


「紙端の切り方が違います。灰柳の紙なら、右下を少し斜めに落とす。荷場の紙はまっすぐ切る。あなたの紙は、荷場の紙です」


 リューリックが、ほんの少しだけ目を細めた。


「では、荷場を確認すれば分かると」


「分かるとは言っていません。分からないことが減るだけです」


「エルゼみたいなことを言うな」


 俺が言うと、ニーナの薬箱の留め金がまた鳴った。


「今のは比較としてだ」


「何も言ってない」


「音が言った」


「薬箱は喋らない」


「昨日から俺の周囲は物も喋る」


 イザベルが、薄く笑った。


「賑やかな怪我人ですね」


「よく言われる」


「でしょうね」


 リューリックが紙片を机に置いた。


 イザベルは触らずに眺めた。


 青い細線を見た瞬間、彼女の顔がわずかに変わった。


 ほんのわずかだ。


 だが、変わった。


「この印を知っているか」


 俺が訊くと、イザベルは答えなかった。


 代わりに、窓の外を見た。


 灰柳の下に、人影が二つ。


 荷場の方を見ている男たちだ。


 こちらを見るでもなく、見ないでもない。


 見るために見ない顔をしている。


 リューリックが、半歩だけ立ち位置を変えた。


 俺と窓の間。


 ニーナと扉の間。


 相変わらず位置がうまい。


 イザベルは低い声で言った。


「青い細線は、最近の荷札に混じるようになりました」


「ヴィクトルの青いインクとは違うのか」


 俺が言うと、イザベルの目が鋭くなった。


「その名を、この部屋で軽く出さない方がいい」


「知っているんだな」


「知っている人がいる、ということだけ知っています」


「便利な逃げ方だ」


「代書人は、逃げ方を書いて生きています」


 彼女は机の下から古い帳面を出した。


「青い細線の荷札は、粉、薬草、古布、靴に多い。高い品ではありません。生活に近い品です」


「粉と薬草」


 ニーナの声が低くなる。


「誰が出してるの」


「出している者は一人ではありません。灰柳は分岐です。南から来る荷、西から来る銀、東から来る粉、北から逃げる人。全部混ざります」


 イザベルは帳面をめくった。


 そこに、細かい文字が並んでいる。


 リンデン粉。


 灰柳倉。


 ブリエン東口。


 レヴォナ軽銀。


 名前写し。


 俺の目が止まった。


「名前写し?」


 イザベルは、そこで初めて俺を正面から見た。


「読み書きができない者のために、名前を書く仕事です」


「それだけか」


「本来は」


 本来は。


 嫌な言葉だ。


 リューリックも同じところに引っかかったらしい。


「本来ではない使われ方があるのですね」


「あります」


「何ですか」


 イザベルは、しばらく黙った。


 外の男たちが、灰柳の下から少し動いた。


 灰色の枝の影が、窓に揺れる。


 彼女は声をさらに落とした。


「死んだ者の名を、まだ生きている紙として買う者がいます」


 ニーナが息を止めた。


「死んだ人の名前を?」


「はい。通行札の写し。難民名簿の控え。荷馬車の同乗記録。治療を受けた者の仮名。死んだ者、行方不明の者、戻らない者。そういう名を買って、別の人間に着せる」


「名前を、服みたいに」


「はい」


 俺は、喉の奥が少し冷たくなった。


 名前を着せる。


 俺は偽名を使っている。


 ロド・カナリ。


 便宜上の名。


 自分で軽くしている名。


 だが、ここで売られているのは、誰かが生きた名だ。


 誰かが死んでも、まだ家族の胸に残っている名だ。


 それを銀で買う。


 軽い銀で。


「それを誰が買う」


 リューリックが訊いた。


「商人。逃亡者。兵を避けたい者。兵を送り込みたい者。誰でも」


「青い細線は」


「名前写しと荷札を結ぶ印です。少なくとも、私はそう見ています」


「ヴィクトルの正規網ではない?」


「似ています。ですが、斜め三本ではない。細い横線だけ。あれはたぶん、真似です。あるいは、わざと似せた別物」


 リューリックが小さく頷いた。


「断定しない方がよいですね」


「断定は、紙を殺します」


 イザベルは言った。


 その言葉は、妙に重かった。


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