第十八部 灰柳の代書人と、売られる名前の話 ① 灰柳へ
金が軽くなると、次に軽くなるものがある。
約束だ。
昨日払うと言った金が、今日は足りない。
先に渡すと言った粉が、倉に残っていない。
必ず戻ると言った男が、別の町の名簿に載っている。
そして、約束が軽くなると、最後に名前が売られる。
死んだ者の名。
戻らない者の名。
どこかへ行ったまま、まだ帰っていない者の名。
名前は食えない。
名前では宿代も払えない。
けれど、名前を売れば、一晩の粥になる。
そういう値段をつける者が、この大陸にはいる。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
この日、俺は知った。
銀貨が病気になると、名前まで熱を出す。
そして、名前の熱は、体の熱よりずっと見つけにくい。
◇
翌朝、リンデン診療所の裏庭で、俺はまたニーナに肩を押された。
冬の終わりの朝は、まだ冷たい。
薬草棚の根元には霜が残り、洗った包帯の端が少し固くなっている。
診療所の中では、居候老人が咳の子どもを診ていた。
白髪頭が朝の光を受けて、妙に白い。
あの老人は、動きは遅いが、見るところは速い。
俺の方を一瞥して、鼻を鳴らした。
「また出歩く顔だな、都合のいい傷の男」
「顔で分かるのか」
「出歩く馬鹿は、肩より先に目が動く」
「ひどい分類だ」
「当たっている」
ニーナが俺の包帯をほどきながら、横から言った。
「当たってるね」
「お前まで」
「だって、もう灰柳に行く顔してる」
「灰柳に行く顔って何だ」
「痛みを軽く見積もって、面倒事を重く見積もらない顔」
「俺の顔、説明が多いな」
「顔がうるさいから」
リューリックが、診療所の軒下で荷を整えていた。
革袋。
水袋。
包帯。
粉挽き場で受け取った小さな粉袋。
そして、昨夜の紙片。
青い細線が入った、あの紙だ。
「殿下」
「何だ」
「本日の移動は、リンデンから灰柳の分岐まで。通常なら半日強。殿下の肩を考慮し、荷車を使えば往復可能でございます」
「往復可能か」
「はい。ただし、殿下が走らず、跳ばず、荷を担がず、女性医療者に不用意に近づかず、名前を勝手に増やさなければ、という条件付きです」
「最後の二つは移動条件か?」
「安全条件でございます」
ニーナが、俺の包帯を巻き直しながら頷いた。
「同感」
「お前たち、最近よく組むな」
「患者の安全のため」
「殿下の生命維持のため」
「言い方は違うが、俺を縛る方向は同じだな」
「必要なら縛るよ」
ニーナはさらりと言った。
冗談なのか本気なのか、判断しにくい。
最近の医療者は、患者を生かすためなら普通に縛る。
俺は学んだ。
「で、ニーナ」
「何」
「お前も来るのか」
「行く」
「診療所は?」
「じいさんがいる。午前中の熱の子は診た。急患が来たら、マルタさんの下働きが馬で呼びに来る」
「お前が行く必要は?」
「ある」
「なぜ」
ニーナは俺の包帯を結んだ。
少しだけ強い。
「灰柳の紙に、薬の印もあった。粉だけじゃなくて、薬草の受け渡しにも関係してるかもしれない。うちの診療所に関わるなら、うちが見る」
「危ないかもしれないぞ」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「それはあんたでしょ」
ニーナは薬箱を閉じた。
少しだけ口元が固い。
強がっている。
俺には分かった。
分かるくらいには、彼女との距離が近くなっている。
分かってしまうくらいには、面倒な関係になっている。
「ニーナ殿」
リューリックが静かに言った。
「灰柳では、私と殿下の後方二歩を基本にお願いします」
「三歩じゃなくて?」
「昨日の粉挽き場で、殿下が突然口を滑らせる可能性を考えると、二歩の方が薬箱の到達距離として適切かと」
「薬箱で止める前提なのか」
「はい」
「分かった。二歩」
「分かるな」
居候老人が奥から声を投げた。
「ニーナ」
「何、じいさん」
「薬箱の右側、止血布を増やせ」
「うん」
「あと、そこの都合のいい傷の男に、眠り薬は渡すな」
「なんで」
「眠り薬を持った馬鹿は、使わずに我慢して倒れるか、使って変な夢を見て転ぶ」
「俺への信頼が地の底だな」
「経験則だ」
ニーナは少し笑った。
それから、俺の革袋を一瞬見た。
昨日、彼女は中身を見てしまった。
セラの包帯。
マレーナの薬草袋。
ヴェロニカの止血粉。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
ヴィクトルの青い活字。
エルゼの退院証。
ハインリッヒの栞。
そして、ニーナの空の硝子管。
彼女は、空の硝子管の位置だけ確認するように目を動かした。
「……ちゃんと入ってる?」
「入ってる」
「なくしたら怒る」
「管理指示だな」
「そう。管理指示」
そう言いながら、彼女の耳が少し赤くなった。
その赤さだけで、朝の冷えが少しだけ緩んだ気がした。
◇
灰柳の分岐へ向かう道は、リンデンの西南に伸びていた。
王都方面へ向かう中央街道から少し外れ、ブリエン街道へ抜ける荷道と交わる場所に、古い柳が一本立っている。
昔、落雷で焦げたという。
灰色の幹。
灰色の枝。
春になっても葉の出が遅いので、地元では灰柳と呼ぶらしい。
そこに、小さな分岐宿がある。
宿と言っても、宿屋が一軒、代書屋が一軒、荷置き小屋が二つ、井戸が一つ。
それだけだ。
だが、街道の分岐というものは、町よりよくものを覚えている。
誰がどちらへ向かったか。
どの荷が重かったか。
どの馬車が軽い銀を払ったか。
どの名が紙に書かれたか。
灰柳は、そういう場所だった。
俺たちはマルタが貸してくれた小さな荷車に乗っていた。
馬ではない。
人が押す車でもない。
痩せた驢馬が一頭、淡々と引いている。
名はパン粉。
マルタがそう呼んでいた。
粉挽き場の女主人らしい命名だった。
「パン粉」
俺は驢馬に声をかけた。
驢馬は無視した。
「こいつ、俺を見下してないか」
「殿下」
リューリックが手綱を持ちながら言った。
「驢馬は、地位ではなく荷の安定を見る生き物でございます」
「つまり」
「殿下の座り方が不安定です」
「驢馬にまで実務評価されるのか」
ニーナが、荷車の向かいで薬箱を抱えて笑った。
「パン粉、賢いね」
「俺の味方がいない」
「生きてる側にはいるでしょ」
「最近、それで全部押し切られる」
「強い言葉だからね」
道は緩やかに下っている。
畑はまだ冬色だ。
遠くの林の影に、雪の名残が少しだけ白く残っている。
リンデンの村外れを過ぎると、難民の小屋がいくつか見えた。
板を寄せ、布をかけ、煙突だけを急ごしらえした小屋。
前を子どもが走っている。
裸足ではない。
だが、靴は大きすぎた。
誰かの古靴だろう。
俺はその足を見た。
少し前なら、見落としていたかもしれない。
今は見る。
見てしまう。
セラが見ていた足。
ニーナが見る熱。
エルゼが書く余白。
いろいろな女の目が、俺の中に入り込んでいる。
たまにうるさい。
かなりありがたい。
「レオン」
ニーナが言った。
「何だ」
「今、難しい顔してた」
「顔がまた喋ってたか」
「うん」
「何て言ってた」
「たぶん、お腹が空いている子の靴を見てた」
「……よく分かるな」
「うちも見るから」
ニーナは、薬箱を膝の上で押さえた。
「靴が合わない子は、転びやすい。転ぶと膝を擦る。膝を擦ると化膿する。化膿すると熱が出る。熱が出ると薬がいる」
「世界が膝から薬まで繋がっている」
「繋がってるよ。あんたの怪我も、だいたい変な場所から繋がってくる」
「否定できない」
リューリックが静かに言った。
「殿下の場合、女性医療者との遭遇から負傷までの接続距離が極めて短い傾向にございます」
「統計を取るな」
「記録せずとも、家令の記憶だけで十分でございます」
「うるさい」
ニーナが少しだけ笑った。
笑いながらも、視線は道端の小屋を見ている。
彼女はもう、診療所の中だけを見ていない。
薬を作る者は、薬の外を見始めている。
それは成長なのか、苦しみなのか。
たぶん、両方だ。




