第7話 電話番と掃除
チャイムで目が覚めた。
低く規則正しい音が、屋根の向こうから流れてくる。寮の起床チャイムだろう。
窓の外はもう白んでいて、体がまだ昨日の疲れを引きずっていた。少しの間天井を見ていると、梁の木目が朝の光の中でくっきりしていた。
窓を開けて伸びをする。屋根の瓦が寮の屋上に繋がっているので、昨晩と同じく手すりを掴んで移動した。端に水道の蛇口があり、冷たい水で顔を洗う。空が青く、朝の風が涼しかった。同じ服を三日着ていることを思い出し、今日は何とかしなければならないと考えた。
ーーー
校舎長の部屋をノックしたのは8時前だった。
事情を話すと、校舎長は引き出しを開けて金庫から紙幣を数枚取り出した。半月分を前払いするとのことで交渉は成立した。
午後に向けて買い出しを頼みたいと言われ、前払い分と別に硬貨を渡された。リストを見ると品数は少なく、午前中で十分に回れそうだ。「ついでに自分のものも買ってきなさい」と言って、校舎長はもう書類に目を落としていた。
ーーー
街に出ると、前の2日間とは光の色が違っていた。
ここはルーデン市という。
首都イルナから30キロほど離れた旧市街で、第一学区に属す街だ。
アルカナ大陸は七つの学区域に分かれており、第一学区は大陸の政治・文化の中枢に近い地域とされる。
大陸学術評議会が本部を置いているのもこの街で、大陸中央の学術都市「アカデミア・ウルス」の中心地にあたる。頂点校のアルカナ魔導皇立大学をはじめとして、A、Bランク帯に属する大学も複数設置されており、教育行政の中心を担う街だ。
大学前の大通りに出ると、石畳の両側に商店がずらりと並んでいた。服飾店、文具店、食料品店、薬草店。多種族が行き交う光景には活気があり、朝の澄んだ空気がある。よく晴れていて、路面の石がきらきらと輝いていた。
まずは予備校のリストをこなす。文具店でチョークと帳面を買い、食材店で調味料を数種類。
人数分の昼の弁当は後に回して、荷物が増えてきたころで路地へ入り、服飾店を探した。
2軒目に入った店で手頃なものが揃っていた。動きやすい上衣を2着と、厚手の下衣を1着、下着を3組。
店主の中年女性が「学校の人?」と聞いてきたので予備校と答えると、「丈夫なのが一番ね」と言って良い素材のものを勧めてくれた。
石鹸と洗面道具を薬草店で買い、残りの硬貨を数えると、当座はなんとかなる程度に収まっていた。
荷物を抱えて大通りに戻ると、一昨日野宿した公園が見えた。昼の公園は別の場所のように穏やかで明るい。
芝の上に学生らしい若者が座っており、一人が弦楽器を弾いていた。のんびりした音が石畳に広がって、通りの騒音にまぎれていく。
3日前に夜を過ごしていた場所は、今の光景とつながらなかった。
ーーー
弁当を買い、予備校に戻ったのは昼前だった。
荷物を届けると、校舎長が廊下で待っていた。午後からは電話番を頼むと言われ、マニュアルを手渡される。今日から新年度の新規受付が始まるとのことだった。
空き教室に案内されると、机の上に受話器のような機器と、先ほど手渡されたものよりさらに分厚いマニュアルの束が置いてある。寮長・寮母夫妻、講師2人、炊事場からの助っ人3人が揃い、そこに校舎長自らも加わり、計9人で対応することになった。
受付開始の13時を過ぎた途端に、ひっきりなしに電話が鳴り始めた。
ーーー
最初の1件はG-MATSのスコアについての問い合わせだった。
「先日の結果でM偏差値が62だったんです。高校からは浪人を勧められて……今年一年でどのランクの大学を狙えますか?」
マニュアルの早見表を確認する。
「Αランクの下位から中位が現実的な目標になります。Βランクはすでに十分射程内です。ただΑランク上位を目指すなら、不足科目の補強が必要になってきます」
相手が具体的な学校名を挙げた。マニュアルの該当ページに飛んで、昨年の合格者スコア分布を読み上げる。62という数字はギリギリ届かない水準だった。
厳しいことを正確に伝えると、しばらく間があって電話が切れた。寮長が小声で「偏差値62でアッパーAはきついよね」と呟くが、俺は何も言えなかった。
3件目はゴブリン族の保護者からだった。
「息子が偏差値58を取りました。ゴブリン枠で考えているんですが、最近枠の競争率が上がっているというのは本当ですか」
マニュアルによれば、本当だ。
「はい。ゴブリン枠の平均スコアはここ10年で継続的に上昇しています。5年前に比べると、難関校の合格ラインが15点以上上がっている学校もありますね。偏差値58ですと、Βランク上位からΑランク下位の枠内で十分に戦えます」
「わたしの頃は名前を書けば受かっていたんですが……」
「現状には当てはまりません。ゴブリン枠でも、他の種族と同じ水準の準備が必要です」
電話が切れたあと、講師の一人が「ゴブリン枠の問い合わせ、今年は多いな」と言った。一字一句マニュアルどおりの受け答えをしているだけで、実際のところは種族別クォーター制度について何も知らないのだ。
5件目は少し違う内容だった。
「娘が今年三浪目になります。ダンジョンの踏破歴が全くないんですが、アドミッション・ポリシー型の入試でも対策可能ですか」
マニュアルのアドミッション型のページを確認する。なるほど、推薦入試のようなものだろうか。
「踏破歴がなくても出願は可能です。ただし探索実績の評価がゼロになりますから、他の項目で補う必要があります。学術実績や語学・資格の取得状況が加点の対象になります」
「具体的には何を準備すればいいですか」
「魔導師資格の補助士レベルでも評価されます。古代語検定や錬金術の初級資格も対象です。現在取得しているものはありますか」
保護者が娘の資格をリストアップし始める。マニュアルの換算表を参照しながら評価点を計算したところ、踏破歴がなくとも中位校のアドミッション型なら戦える水準だった。
それを伝えると、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
7件目は短かった。
「スライムなんですが、寮の部屋に入れますか。床が傷むと言われたことがあって」
スライムの入塾希望者だった。
マニュアルには、防液処理を施した床材の部屋を用意していると書いてある。
「ご入寮の際に該当居室をご案内します。G-MATSは受験されましたか」
「今年初めてで、偏差値は68でした。志望大学にギリギリ届かなくて」
「それでは資料をお送りしますよ。ご住所とお名前を伺えますか?」
ーーー
18時に受付が締まる。
総件数は47件だった。
実技系を除けばほとんどの大学は事前に提出した課外活動・資格の調査書とG-MATSのスコアで選考が決まるらしく、早ければ週末にも入寮者が来るという。
退勤かと思いきや、寮長に呼び止められて「入寮準備をお願いできる?」と聞かれた。
俺は雑用係だ。押し付けられるのが仕事である。
残った仕事のリストを受け取ると、教室6室の机と椅子の配置確認、廊下の清掃、寮の各フロア共用部の点検、個室の点検etc.
今日のうちに終わらせることは不可能なので、数日に割り振って優先度の高い順に回ることにした。
まずは教室の机を動かし、椅子の脚のガタつきを締め直す。明日からの体験授業が始まる前に、教室だけでも完成させておく必要がある。
講義棟の廊下を箒で掃いてから雑巾がけをし、各フロアを上から下へ順番に歩いて、壊れた照明と詰まりかけた排水をかき出した。
手を動かしながら、この作業がまだしばらく続く予感がした。
23時に時計を見た。
壁に書き出したリストを見直すと、終わっているのは全体の三分の一にも届かない。
寮の方はまったく手付かずだったが、残りは明日以降に持ち越すことにした。
屋台でスープを立ったまま飲み、大浴場を10分で出ると、屋根裏に戻ってベッドに倒れ込み、考える前に眠りについた。
なるほど、過酷だ。




