第5話 予備校にて初仕事
額を何かでつつかれて目が覚めた。
空が白い。
体の下にベンチの固い木の感触がある。
公園で寝ていたことを思い出すのに数秒かかっていると、もう一度額をつつかれた。
目の前に鳥がいた。
灰色の鳩で、首を左右に動かしながらこちらを見ている。足に細い筒がくくられていた。正真正銘の伝書鳩だ。
筒を外して開けると、中に小さく巻かれた紙が入っていた。
『採用の件、承認。
できれば本日中に来てほしい。
───アルカナゼミナール第一学区六番校舎』
採用だ。
俺が安堵しているうちに、鳩は用が済んだとばかりに飛び立った。
起き上がって体の節々を確かめると、一晩野宿した割には思ったよりひどくなかった。
腹の調子も昨日よりは落ち着いている。
財布の硬貨で屋台の薄いスープを一杯飲んで、住所を頼りに歩き始めた。
ーーー
指定された校舎は、旧市街のほぼど真ん中に位置する石造りの建物だった。
正面に看板が出ており、墨で「妥協は、敵だ」と書かれている。雰囲気だけで了解できる種類の文句だった。
受付で名前を告げると、奥から校舎長が出てきた。
50代くらいの人間の男で、眼鏡をかけている。髪がやや薄く、疲れた目をしていた。
「来たか。早かったな。まず部屋を見せる」
挨拶もそこそこに歩き始めたクランス校舎長に続いて、校舎の中に足を踏み入れる。廊下を抜け、階段を上り、さらに狭い梯子のような階段を上ると、天井の低い空間に出た。
屋根裏だった。
梁が剥き出しで埃が積もっており、小さな明かり取りの窓が一つあった。
ただ、思ったよりは相当広い。
倉庫として使われていたと思しき棚が壁際に並んでおり、木製のベッドと机が一つずつ置いてあった。荷物はすでに撤去されており、雑然としてはいるが、使えないことはない。
「しばらく使っていなかったから埃がひどい。掃除は自分でやってくれ。リネンは寮の地下にあるから、あとで取りに行くように」
「わかりました」
「寮の食堂に行けば食事を出してくれる。朝夕だけなので、昼は自分で準備するように」
校舎長は腕を組んで俺を見た。
「で、肝心の仕事の話だ。さっそく今日頼みたいことがある」
ーーー
仕事とは、寮のある一室のことだった。
「期限を過ぎても退寮しない生徒がいるんで、君に説得をお願いしたい」
聞けば予備校の寮生はG-MATSの当日には退寮するのが規則で、試験翌日となる今日には全員いなくなっているはずだった。ところが一人だけ、荷物ひとつ部屋から出さず、退寮せずに居座っている女子生徒がいる。
「試験の間に荷物を出そうとしたんだが、寮長に解錠のスキルがなくて入れなかった。まずは話し合いで出てきてもらうのが筋だが、こちらの者では何度話しかけても返事がない。君が試みてみてくれ。それでもだめなら業者を手配してくれ」
「わかりました。部屋はどこですか」
「1階の奥の角部屋だ。生徒の名前はイスラ・フォム。3年在籍の獣人だ。成績は悪くないんで、今年で受かって出ていくはずなんだが」
俺は校舎長についていく形で寮の建物に移動した。寮は校舎に隣接した別棟で、廊下の突き当たりの角部屋の前に、ずんぐりとした体格の人物が立っていた。寮長だろう。件の部屋をノックして、中から返事がないと肩をすくめて見せた。
部屋の扉は分厚かった。
寮長に代わって今度は俺がノックした。
「イスラさん。今日から校舎の雑用係になった者です。退寮の件でお話ししたいんですが、少しだけ時間をもらえますか」
沈黙。
もう一度ノックした。
「話し合いで解決したいと思っています。業者を呼ぶのは最後の手段にしたいので」
沈黙が続いた。扉は開かなかった。
俺は寮長を振り向いた。「生徒の記録を見せてもらえますか」
ーーー
寮の庶務室は一階の角にあった。棚に石板がずらりと並んでいる。イスラ・フォムの石板を出してもらって、読んだ。
ーーー
種族:獣人(熊系)
身長:185センチ
体重:102キロ
ーーー
で、でかい。
数値を見ただけで理解した。
ーーー
在籍:3年
成績:良好
生活態度:問題なし
特記事項:なし
ーーー
成績の推移や面談記録を見ても、ごく普通の予備校生という印象を受けた。
スキル欄を読んだ。魔力制御、感知強化、物理耐性強化、跳躍補助、防音……
防音。
何か引っかかったが、引っかかりの正体をすぐには掴めなかった。
ーーー
生徒記録を読んでもこれといった収穫がないので、寮長に聞き取ることにした。
「イスラさんはどんな生徒でしたか」
寮長は少し考えてから言った。
「真面目な子ですよ。成績も良くて、生活態度も。他の生徒に優しいし、食堂でもよく後輩の面倒を見てました。問題行動というと……生徒記録には書いていませんが、2年のときに寮外の友人を部屋に招いていたので口頭で注意しました。今度やったら退寮だと。その後はやっていないようですね。ここ最近の様子は……受験前はだいぶしんどそうでした。何度か体調が悪くて休んでいたので。ストレスですかね、こういう生徒は多いです」
「なるほど。その、部屋にいた友人というのは?」
「高校からの友人だそうで、近くの商科大に通う子です。恋人を連れ込んでいるのとは訳が違いますから、口頭注意で済ませましたけど」
「いつ頃から体調が悪かったですか」
「半年くらい前かすかね。去年の秋口です」
秋口から体調不良、とメモに書きつけた。
次に炊事場に行った。担当者は獣人の中年女性で、手を拭きながら出てきた。
「イスラちゃんね。よく食べる子ですよ。食堂でも一番食べてたかな。でも最近はあまり見てなくて」
「いつ頃からですか?」
「2ヶ月くらい前かしら。食堂には来なくなって、部屋に持って帰って食べてるんです。よく食べてはいるみたいで、むしろ量は前より増えてますね。1食分追加で持っていくようになってましたから。炊事場のみんなで、何か塞ぎ込んでいるのかなって話してたんですよ。試験前だし、無理してないかしらって」
「持って帰る食べ物に変化はありましたか」
炊事担当者が少し首を傾けた。
「そういえば、柔らかいものを多めに持って行くようになりましたね。スープとか、煮崩したものとか。最初は体調が悪いのかなと思ってたけど」
ーーー
庶務室に戻って、メモを読み返した。
半年前から体調不良。防音スキル。
食堂に来なくなり、部屋に食事を持ち帰るようになった。
量が増え、柔らかいものが多くなった。
鍵をかけて誰も入れない。
G-MATSには行っていた。
それから、2年次に部屋へ連れ込んだ友人。
1人分多い食事……。
「彼女、誰かと一緒に住んでたりしませんかね」
寮長は驚きで目をひんむいて言った。
「いや、そんなまさか……」
「食事が倍っていうのが気になって」
寮長は黙り込んで考え事をしているようだった。額に冷や汗がにじんでいる。
「この寮は今年改修工事をしたばかりで、外部から入り込むのが非常に厳しくなったんだ。必ずバレる」
「そうですか……」
防音スキル。
半年前からの体調不良。
誰も入れない部屋。
俺は席を立った。
ーーー
もう一度、扉の前に立った。
ノックして、声を落として言った。
「イスラさん。ひょっとして赤ちゃんがいるんじゃないですか。違っていたら謝ります。でも、もしそうなら、一人でいるのは無理だと思う」
長い沈黙があった。
それから、鍵が外れる音がした。
扉が少し開いた。
イスラ・フォムはとても大きかった。
身長185センチというのは数字として頭に入っていたが、目の前に立つと改めてそう思った。くすんだ金色の体毛に覆われた大柄な熊系の獣人で、目が充血していた。
その腕の中に、毛布に包まれた小さな何かがいる。
声を出さず、ただこちらを見ていた。
小さな何かと目が合った。
「来てください」と俺は言った。「話せる場所に行きましょう」
ーーー
寮長を呼んで職員が庶務室に集まると、一同はその腕に抱かれた赤子を見て驚愕した。
イスラは最初ほとんど話さなかった。
しかし、寮母が「どうして今まで言ってくれなかったの……ひとりで産んだの?」としゃがんで顔を覗き込むと、大きな肩が震えた。
「……怖くて言えなかったんです。試験があって、言ったら帰れって言われると思って。もう少し、もう少しだけここにいさせてほしくて」
寮長が「ちょっと待って」と手を上げた。声が少し掠れていた。
「その子のお父さんは誰なの」
イスラが少し間を置いて、名前を言った。
寮長が目を丸くした。
「フィンって、あの、受付によく来てた長髪の?」
イスラがうなずいた。
「女性じゃなかったのか……」
後から聞いた話では、フィンというのは近頃うちの配達を担当している小人族の青年で、髪が長く華奢な顔つきをしているので、受付からは女性と思われていたそうだ。2年次に連れ込んでいたのも彼で、当時は商科大に通っていたが、妊娠が発覚するや大学を辞めて働き始めたという。イスラが大学に進学するためだった。
「どうして言ってくれなかったんだ」
寮長の声が、呆れと安堵と涙のちょうど真ん中あたりの色をしていた。
炊事場から2人が来て、廊下から様子を覗いていた。イスラを気にかけていた一人が、泣きながらイスラのもとに近づく。
「ごめんね、気付かなくてごめんね……」
赤ちゃんは泣かなかった。イスラの腕の中で、眠そうに目を動かしていた。
ーーー
人が落ち着いてきた頃に、校舎長が入ってきた。
状況を見渡して一つ息をついた。寮長から経緯を聞くと、納得したように頷いて、俺の方を見やった。
「ご家族にはわたしから連絡しておくよ。さっきフィンが謝りに来た。責任は取ります、イスラを大学に行かせますと」
「よかったですね」
「まあしかし」と校舎長は続けた。
「退寮の規則上、この件は違約金が発生するんで、徴収の手続きを頼むよ。書式は庶務室の棚の三段目にあるから」
「あ、はい」
庶務室はまだ少し湿った空気が残っていた。
俺はとりあえず、棚の三段目を開けた。




