第4話 まずは仕事探し
結局、昨晩は一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
横になってはいたが、眠れない。
ベンチのような硬さのベッドが原因でも、廊下の向こうから聞こえてくる獣のいびきが原因でもない。
ただ、目をつぶっても何かが巡り続けた。
東大の試験のこと、見たことのない街のこと、財布の中の見知らぬ硬貨のこと。
どこへも着地しないまま天井の染みを数えているうちに、窓の外が白んできた。もはや観念したかのように眠るのを諦めた。
そしてもう一つ最悪なことがある。
腹が痛いのだ。
朝起き上がったときに腹に鈍い痛みがあった。
最初は緊張のせいかと思った。あるいは徹夜と疲労のせい。そのいずれも違うと確信したのは、廊下の突き当たりの手洗いに二度駆け込んだときだ。
昨日の屋台の串焼きが当たった。
何の肉か聞かなかったのがまずかったか、あるいは火の通り方の問題か。どちらにしても、今日の試験は腹を下したまま受けることになってしまったようだ。
ーーー
朝の路地は昨夜より人が多かった。
受験生らしい若い姿があちこちにいて、みんな急いだ顔をしていた。俺は荷物を抱えて宿を出たが、試験会場への道がわからない。
昨日はスライムを追ってやってきたので、正面からのルートしか知らないのだ。古本屋に行って帰ってこれたのは、宿からほど近く道が単純だったからだった。
受験会場は周辺だけでもいくつかあるようで、どの受験生に着いていけばよいかわからない。
そこへ、ちょうど例のスライムを発見した。
宿の入口から出てきたところだ。内部に荷物を収納しながら、昨日と同じ方向へ進んでいく。俺は少し間を置いてからその後をついた。2日続けて勝手にあとを尾けているのは我ながら気味が悪いと思ったが、他に手段がない。
腹が痛かった。歩きながら何度か立ち止まって深呼吸をしたが、正直駆け込める場所がないのは不安だ。
スライムは昨日と同じく迷わずに進んでいく。結果として10分ほどで試験会場の正面に出た。俺は門をくぐりながら、今日も別室を申請しようと決めた。
ーーー
今日も別室はスライムとエルフと3人だった。
エルフは昨日と同じ席に、同じ姿勢で座っている。やや俯き加減で、手を膝の上に置いていた。目の下に薄い影があった。彼も昨夜は眠れなかったのかもしれない。俺はそれを一瞬見て、自分の席に座った。
問題冊子が配られた。
1科目目は魔導理論だった。
開いた瞬間、思ったより形が見えた。式の構造が熱力学の問題に似ていたからだ。
「魔素変換効率」と書かれた量が、エネルギー変換効率と同じ振る舞いをしていた。「魔素濃度」は密度のように扱えばいい。計算問題は単位が独自だったが、次元を合わせる要領は変わらなかった。
半分は解けた気がしたが、後半の記述問題は難しかった。
『高位術式における魔素収束の安定条件を述べよ』という設問は、何を答えればいいのかの見当がつかなかった。
それでも白紙は嫌だったので、安定条件というのはエネルギーの釣り合いの問題だと解釈して、それらしい式を書いた。
それがどの程度できているのかは全くわからなかった。
ふと視線を横にやった。なにやら違和感というか、視線を感じたのだ。
その先にいたのはエルフだった。
エルフは問題用紙を開いてはいた。しかし、手が動いていない。視線が窓の外に固定されていて、ペンが机の上に置かれたままだった。
そういうこともある、と俺は思った。頭が真っ白になって止まってしまうことは、試験では起きる。しばらくすれば動き出すだろうと思って、自分の答案に戻った。
鐘が鳴った。
エルフの答案用紙は白紙のまま、名前の欄も空白だった。
ーーー
2科目目は魔導実技筆記だった。
正直に言えば、ほとんどわからなかった。
たとえば、このような問題が出た。
『中級ダンジョン第3層における魔物との遭遇を想定し、魔力残30パーセントの状態で最適な対処法を術式選択の根拠とともに記せ』
そもそもダンジョンに行ったこともない俺にとっては、完全に手探りだった。
論理は立てられる。魔力が少ないなら節約する術式を選ぶべきで、接近戦より遠距離の方がリスクが低い。でも具体的な術式名が一つも出てこなかった。
腹がまた痛んだ。腰を浮かせて、また下ろした。こらえた。
残り30分になったとき、再びエルフを見やった。
またしても何も書いていなかった。ペンは机の上に置かれたままで、エルフは問題用紙を静かに見ていた。何を見ているのか、読んでいるのか、ただ視線を向けているだけなのかはわからない。
鐘が鳴った。エルフは答案用紙を静かに重ねて、監督に差し出した。
ーーー
外に出ると、空が広かった。
試験が終わったという感覚だけがあった。よくできたとも悪かったとも判断できない。
そもそも正解が何かを知らないのだから、出来の評価もできない。
ただ終わった。晴れているわけでも曇っているわけでもない、白い空だった。
奇妙な気分だ。不安のようでもあり、妙に清々しくもある。
石段を降りかけたとき、声が聞こえた。すすり泣く声だ。
門の脇に、昨日も見た上等な外套の男女が立っていた。エルフの両親だ。そのそばに、別室にいたエルフが立っていた。
目を赤くし、肩を小刻みに震わせている。
「もう、どうにもならないの?」
母親らしい人物が心配そうに聞くと、エルフはしゃくり上げるような調子で応えた。
「頭が真っ白で……どうなったかわかりません。名前を書き忘れるなんて……」
母親がエルフの背に手を当てていた。父親の顔に、何とも言いがたい表情が浮かんでいる。
俺は足を止めてそれを聞いた。
(名前どころか全部白紙だったろうに)
何も書いていなかった。名前以前に、答えが一字もなかったのだ。
どういう意図で白紙にして、両親の前で泣いているのか、俺にはわからなかった。
ーーー
さて、これからどうするか。
公園のベンチに腰を下ろして考えた。
受験票の下の方に住所が書いてあった。家かも知れない。否、普通に読んだら家のはずだ。
住所は第三学区域の通りの番地だった。
ただ、なんとなく嫌な予感がした。
理由は説明できないが、行く前にまず確認した方がいいと直感したのだ。
公園の向こうに大きな建物が見えた。昨日から気になっていたが、どうやら図書館のようだった。正面の石柱に文字が刻んであったのだ。
『第三学区域中央図書館』
ーーー
図書館の中は静かで、天井が高かった。
石の床に、木製の棚が規則正しく並んでいる。本だけでなく石板や巻物も収蔵されているようだった。
受付に鳥のような特徴を持つ人物が座っていた。額の上に小さな羽毛があり、目が丸く、よく動く。
「住所録を見たいです」俺は言った。
司書は棚を指さして案内してくれた。
住所録は年によって何冊もあった。その上区域ごとに分かれている。受験票の番地を確認しながら、該当するページを開いた。
───住所には、何も載っていなかった。
もう1冊、別の版を引いた。やはりない。存在しない番地ということか。
3冊目を確認したところ、ようやく番地に言及があった。
その区画自体が5年前に区画整理で消えているという注記だった。
受験票に書かれた住所は、現存しない場所だったのだ。
俺はしばらく、住所録を開いたまま座っていた。
帰る場所がない。
帰る家がない。
保護者もいない。知り合いもいない。
財布に残っている硬貨では宿に泊まれるのがあと一泊か二泊か、という水準だ。
司書が戻ってきた。俺の顔を見て、少し首を傾けた。
「何か見つかりましたか?」
「俺の住所がなくなってました」
言葉の意味をどう受け取ったかはわからないが、司書は少し考えてから言った。
「職安に行きましたか、職業安定所。区役所の向かいにあります。緊急の場合、住み込みの求人を紹介してもらえることがありますから」
ーーー
職業案内所は、薄暗い待合室に番号札が並んでいた。
30分ほど待つとカウンターに呼ばれた。
担当者は人間だった。書類を広げながら、手際よく質問してきた。
「学歴は?」
「高卒です」
「資格は?」
「ないです」
「魔力資質の級は?」
「……あの、どうやって確認するんですか」
担当者が手を止めた。俺の顔を見た。
「受験票に記載があるはずですが」
紙を出して確認した。
確かに魔力資質の欄があって、「B+」と刻まれていた。
「B+です」
「了解です。では求人を確認します」
担当者が棚から用紙を数枚出してきた。
「中途採用で探しますね。高卒の新卒採用は学校経由が基本なので、ここでは扱っていません」
差し出された求人票を一枚ずつ読んでいく。
ーーー
1件目:魔物討伐補助。住み込み可。魔力B以上必須。危険手当あり。
2件目:採掘現場補助。地底区画。換気不良注意。魔石運搬のため魔力A以上が望ましい。
3件目:廃ダンジョン解体作業。未踏区画あり。非推薦種族あり(スライム可)。
ーーー
1件目から危険手当がついているのが気になったが、それ以外も全部命に関わりそうだった。
4件目を読んで、手が止まった。
ーーー
魔導予備校:住み込み雑用係。清掃・荷物運搬・庶務補助。魔力不問。
屋根裏部屋提供・一部食事つき。【急募】。
ーーー
「これにします」
担当者が求人票を確認した。
「予備校ですね。雑用係ですが、よろしいですか?」
「はい」
「応募書類を書いてお待ちください。先方からの返答は明日以降になります」
書類を書きながら、俺は少し考えた。
予備校の雑用係。屋根裏部屋。悪くない。
いや、悪いかもしれないが、宿代を考えると選んでいる余裕はなかった。
それに、受験のことを教えてもらえる場所の中にいるのは、何かと都合がいい気がした。
なぜ都合がいいのかはまだわからなかったが。
書類を提出して、外に出た。
宿代が惜しかった。財布の中身と明日の食費を頭の中で計算して、今夜は宿には泊まらないことにした。
公園に戻ってベンチを選んだ。人目につかない場所の、木の陰になっているところにする。荷物をリュックに入れ直して、膝の上に置いた。
空は暗くなり始めていた。
試験は終わった。帰る場所はなかった。腹はまだ少し痛かった。
公園の端を、スライムが通った。宿の方向へ向かっていたが、今日は後を追わなかった。
明日、連絡が来ることだけを祈った。




