第2話 途中棄権はできません
試験終了の合図は鐘の音だった。
低く、長く、石造りの天井に響く鐘の音。
「やめ」という監督の声が重なり、皆が手を止め、前を向き直る。鐘が二度鳴ったあと、監督たちが静かに答案を回収し始めた。
その所作が妙に厳かで、まるで儀式のようだと思う。
ペンを置いて、息を吐いた。
第六問の最後の行を書き終えたのは鐘が鳴る30秒前。内容はめちゃくちゃだろうが、なんとか書き切って提出した。
試験監督より休憩が30分と告げられると、大講堂は途端に緊張が解けて騒がしくなる。
受験生たちが席を立ち始めても、俺はしばらく動けなかった。
ーーー
ひとまず荷物を確認した。
椅子の脇に自分と同じリュックサックが置いてあった。ただし素材がやや古びていて、縫い目が手縫いになっている。手に取ると確かに自分のものだという感覚があった。
中には薄い紙と財布だけが入っていて、紙には文字が刻まれている。───受験票だ。
財布に入っていたはずの一万円札はなくなっていたが、代わりに金銀の硬貨が数枚と、紙幣が二枚。硬貨の表面には翼を広げた謎の生き物が彫刻されていた。
机の上には、試験前に配布されたと思われる筆記用具があった。特製のペンと、つるつるした材質の消しゴム。
自分で持ってきたはずのシャーペンと替え芯はどこにもなく、もとの世界から持ち込めたものだけが残っているようだった。
受験票を見る。
ーーー
名前:ケイ・ミカミ
受験番号:A18976
種族:人間
2/25
1科目:大陸史・種族史
2科目:汎用語
3科目:算術魔導学
2/26
1科目:魔導理論
2科目:魔導実技筆記
ーーー
どうやら、今日はあと2科目、明日も2科目、合計5科目あるようだ。
汎用語という科目が何を指すのかはだいたい想像がついた。この世界における言語の試験、すなわち国語や英語のようなものではないだろうか。
算術魔導学は数学に近いものと思われた。
2日目の魔導理論は完全に未知だ。
魔導実技筆記というのも、実技と名のつくものを筆記でどう受けるのか見当がつかない。
受験票の一番下に、試験会場の名称があった。
『第3学区域 第12番
アルカナ魔導皇立大学附設ハンドレー講堂』
アルカナ魔導皇立大学。
大陸の名を冠すこの大学は、俺の世界で言えば東大に相当するような場所なのか、それとも単に試験場として使われているだけなのか、今の俺には判断できなかった。
ーーー
会場をあらためて見回した。
石造りの大きな講堂だ。天井が高く、アーチ状の窓から外光が斜めに差し込んでいる。
壁に沿って木製の彫刻が施されており、どこかヨーロッパの古い大学に似た雰囲気があった。
受験生たちが三々五々、出口に向かっていく。
背が高い者、毛に覆われた者、耳の長い者。
1科目を終えた後の表情はさまざまで、げんなりとした顔も、逆に手応えを感じたような顔もあった。それだけは、俺の知っている試験後となんら変わらない。
現実を受け入れられないまま、俺は立ち上がって講堂を出た。
受験生向けの案内を見ながら廊下を進んでいくと、手洗い場は石造りの通路を曲がった先にあった。
扉を開けた途端に、思わず後ずさる。
洗面台の前に、2メートル近い体躯の受験生が立っていた。
先ほどの会場にいた受験生だ。
顔の横から大きな牙が突き出しており、手の平が俺の頭ほどある。水道の蛇口をつまもうとしているが、太い指がなかなか合わず、何度か試みてようやく水が止まったようだった。
見た目の圧迫感が、試験中に離れて見たときとは全く違った。とにかくデカい。おまけに鼻の奥に土のような匂いがする。
その横に並んでいたのはエルフだった。背丈が俺より10センチは高いだろうか。一瞬目が合ったが、すぐに向き直してそっぽを向いた。その横顔がためらいなく美しい。
小用を済ませて廊下に戻った途端、思ったより強く心臓が打っていることに気づいた。
(落ち着こう……)
行きの回廊からそのまま中庭に出られたので、曇り空の下で深呼吸をする。石畳の広い空間で、中央に低い木が植えてあった。
日本の2月よりは暖かく、カーディガンを羽織れば多少肌寒い程度だ。
ベンチを見つけて腰を下ろすと、遠くで鳥のような声がした。鳥かどうかはわからなかった。
ここはなんなのか。
俺はどうしてここにいるのか。
考えると、どっと疲れが来た。
東大を受験していたはずなのに、気付けば異世界のような場所にいて、大学入試のようなものを受けさせられている。
本当の自分は死んだのだろうか、それとも昏睡状態で眠っているのか。
もとの世界に戻ったときに、浪人していたら嫌だなと思う。それなら今すぐにでも受験しに戻りたいのだ。
怖くて仕方がなかった。ここが魔物の巣窟で、油断したところを食い殺されでもしたらどうしようかと思う。
他にも不安は多かった。
前の世界でも試験は受けてきたが、あれは少なくとも問題の意味がわかった。出来不出来とは別に、何を問われているかはわかっていたのだ。
ここは違う。
問題文の半分は意味が取れない。
汎用語というのが本当に言語の試験なら、何語で何を問われるのか。この世界における外国語も、古典も、何一つわからない。
算術魔導学が魔術の計算を含むなら、魔術を知らない俺にどれだけできるか。
このまま4科目受け続けることを想像して、正直気が遠くなりそうだった。
帰りたい───どこに?
もとの世界に。
今すぐそれが叶わなくても会場の外に出たい。
監督らしき人物が中庭の端を歩いているのを見つけて、俺は思わず立ち上がった。
「あの」呼び止められた試験官が振り返りこちらを見る。先ほどの試験官と同じ種族のようだが、今度は女性だった。
「途中退場はできますか」
試験官は眉を少し動かした。縦長の瞳孔に捕らえられる。
「G-MATSの規則上、試験中の退場はできません。不正とみなされる場合があります」
「あ、いや、残りの科目を受けずに帰りたいんです」
「可能ですが、棄権の場合は試験終了後に別途手続きが必要です」
やや考えた。
手続きをするくらいなら、手持ちぶさたでも居座った方がましかも知れない。
どうせ会場を出たって行く宛もないのだ。
試験官が俺の顔をもう一度見た。
「体調が優れないのであれば別室受験も可能です。顔色が悪いですよ」
少し考えて、そうします、と言った。
気遣われたことでなぜか泣きそうだった。
ーーー
案内された部屋は、講堂の端にある小さな教室だった。
机が5つ並んでいて、そのうち2つにすでに受験生が座っている。
一人はエルフだ。
廊下で見た者とは別人だったが、やはり背が高く、細身で、顔の造りが規格外に美しい。格式高いブレザーを着用しており、問題用紙を静かに待っていた。視線は窓の外に向いていて、こちらには気づいていないようだ。
もう一人の席には、半透明のゼリー状の塊が静かに乗っていた。表面が緩やかに揺れており、すでに答案用紙が目の前に置いてある。さっきの大講堂にいたのとは別の個体かもしれないが、区別はつかない。
俺は端の席に座った。
エルフと一度視線が合ったが、何も言われなかった。スライムは揺れ続けていた。
3人で、残り2科目を受けた。
ーーー
汎用語の試験は、読解と作文だった。
問題文はこの世界の言語で書かれていたが、不思議なことに意味が取れる。
文字の形が違っても、音に変換すると理解できるようだ。試験官とのやり取りがスムーズだったことからも、前提としてこの世界の言語を母語として習得しているということだろう。記述する際にも、手が勝手にこの世界の言葉で綴っていく。一方で、やはり外国語と古典に関してはちんぷんかんぷんだった。
作文は短い論述で、求められていることは日本の国語と大差がない。
手応えがあるとは言えなかったが、少なくとも何を問われているかは分かった。
算術魔導学は、前半が計算問題で後半が図形を使った応用だった。
「魔導」と名のついた記号が各所に入っていたが、それを無視して数式として解くと意外に筋が通った。
後半の2問は意味がわからなかったが、前半はほぼ解けた気がした。
17時過ぎに全日程が終了すると、最後の鐘のあとに甲高く3回目が鳴った。
ーーー
誘導にしたがって外に出る頃には、もうすっかり空が暗くなり始めていた。
建物の前の広い石段に、受験生たちが散らばっている。友人同士が話し込んでいたり、家族に出迎えられたり、ひとりで泣いている受験生がいたりした。試験の後の景色としては、こちらでも変わらないものがあるようだ。
石段を降りながら、街並みを見た。
石畳の通りに石造りの建物が連なり、窓から黄色い明かりが零れていた。
看板の文字は読めたが、知っている店の名前は一つもない。車はなく、代わりに荷物を積んだ大きな獣が通りを歩いていた。
遠くに尖った塔が見えた。夕暮れ色の空に、見たことのない形の雲が流れていく。ヨーロッパの旧市街のような、それでいて明らかに別世界のような、不思議な光景だ。
石段を下っていると、さっき別室にいたエルフが立っていた。
近づいてきたのは両親だろうか。父親とおぼしき男性は長い銀髪を後ろで結んでおり、仕立てのよい外套を身にまとっている。隣にいる母親は幾分若く見えるが、いかにも品のよさげな首飾りをしており、絶世の美女だった。
エルフの少年は表情を変えずに2人に会釈をして、並んで歩き始めた。向かった先は、石畳の向こうに見える馬車だ。
俺は荷物を持ち直して歩き始めた。
行く宛がなかった。
財布に見知らぬ硬貨があることはわかっているが、宿の取り方も食事の仕方もわからない。
明日も試験がある。
とりあえず今夜どこかに泊まらなければいけない。
会場となった大学の正面には、大きな庭園が広がっていた。鉄の柵に囲まれた公園で、手入れの行き届いた低木と、石のベンチが並んでいる。多くの受験生がまっすぐ帰っていくなか、俺は公園のベンチに腰を下ろした。
冷たかった。でも動く気力もない。
帰りたい……。
地方から単身で受験しに来ていたので、ここが本郷キャンパスであっても出迎えられることはないのだが。
それでも帰る宿はあったのだ。
しばらくそのまま座っていると、庭園の出口をスライムが通っていくのが見えた。
別室にいたやつだ。
人間の子供くらいの大きさで、表面に薄い緑色を帯びている。袋のような形の荷物を内部に取り込みながら、ゆっくりと石畳を進んでいく。
宿に帰るはずだ。
空きがあるかはわからないが、少し離れてついて行くことにした。
ーーー
スライムは迷いなく歩いた。
大通りから一本、また一本と入り組んだ路地を進んでいくうち、石造りの建物がせり出して空を狭くし始めた。急に観光地めいた雰囲気が消え、干した布が頭上の洗濯紐に渡してある。
猫のような生き物が塀の上から俺を見ていた。石畳の継ぎ目に雑草が生えている。
スライムが角を曲がるたびに、俺は遅れて同じ角を曲がった。途中からは、なぜ追っているのか自分でもよくわからなかった。他に手がかりがないので着いていく。
しばらくして、スライムが一軒の建物の前で止まった。
古くて狭小な石造の五階建てで、入口に看板が下がっている。「宿泊 レムナ亭」と読めた。
スライムは入口の前で少し揺れてから、中に入っていった。
俺も少し時間を置いて後に続いた。
中は薄暗く、ところどころ木で補修された床が軋む。帳場に初老の女性が座っていた。頭には布を巻いており、耳の先が少し尖っている。
「今日って空いてないですか」
女将はこちらをじろりと見た。
「おあいにく。受験生で一杯だよ。今日明日は毎年こうなの」
そうですか、と言いつつ途方に暮れた。
外は暗く、他に当てもない。
落胆して肩を落とすと、さすがに気の毒に思ったのか女将も小さくため息をついた。
そのとき、帳場の奥で何か音がした。
受話器のような形の道具を女将が取り上げて、短いやり取りをしている。
その間に踵を返して帰ろうとすると、女将が手で制止してきた。
「今日のお客さんがひとり、試験後に会場で倒れたとかで」
俺の瞳に一筋の希望が差した。
「1部屋、空きましたよ」
少しの間、返答できなかった。
安心して泣き出してしまいそうだったからだ。
「いくらですか」と聞くと、250ニルスと答えられた。財布の中の硬貨で足りるかどうかわからなかったが、出してみると足りたようで、いくらか釣り銭を受け取る。
鍵を受け取って階段を上がった。
3階の一番奥の部屋だった。
窓から外を見ると、石畳の路地と、その向こうに屋根の稜線が見える。空には満月、そして地球とは全然違った配置の星が出ていた。
ベッドに腰かけて、両手で顔を覆う。
明日も試験がある。




