第1話 東大入試本番、何かがおかしい
二月の試験会場というのは、独特の空気がある。
暖房が効いているはずなのに、どこかひんやりとした緊張感が漂っているのだ。はやる気持ちを抑えながら、俺は深く息を吸って両手を膝の上に置いた。
大丈夫だ、準備してきた。
そう自分に言い聞かせているうちに、試験監督が手元の時計を凝視しながら息をのむ。
「始めてください」
問題冊子をめくる音が一斉に広がって、いよいよ試験が始まった。
ーーー
志望動機といっても大したものはない。
地元の進学校に進んでからは、なんとなく周りに合わせて東大に行くのだろうと思っていた。
第一問は見覚えのある形式だった。
読んですぐに答案の構成が浮かび、比較的スムーズに書き始める。問題文と解答が正確に噛み合う感触があり、のっけから手応えを感じた。
続く第二問も標準的な問題で、少し考えてから難なく書き出した。
この時点で時計を確認したが、まだ20分と経っていない。好調な滑り出しだった。
ところが第三問で最初の引っかかりを覚えた。
ーーー
『大陸暦178年、アルカナ大陸北部において発生した「灰野の戦い」について、……当該地域の地形的特性および術式運用の観点から説明せよ』
……アルカナ大陸?
聞き覚えのない用語だった。
「灰谷の戦い」というのも初めて知ったし、「大陸暦」という年号の形式も見たことがない。
類推して書こうにも、「術式運用」という単語が何を指すのか、文脈からは判断がつかなかった。
───試験は刻一刻と続いている。
落ち着いて問題文を読み直した。
設問の構造そのものは読める。「数で劣る側がなぜ勝ったか」を地形と戦術で説明しろという問題だった。
それ自体はいくらでも論じられる形式だ。
固有名詞がわからないなら、条件から逆算して書くしかない。
『山岳地形または険峻な地形を利用した防衛陣形が……』
我ながら教科書的な逃げ方だと思ったが、白紙よりはましだ。
『……また、集中的な特殊兵器の運用により、局所的な優位を確保したと考えられる』
「術式」の意味がわからないまま「特殊兵器」と言い換えたのが少し不安だったが、概念として大きく外れてはいないだろうと予想した。
見慣れない問題文に動揺している間にも、隣の席の受験生はなんのためらいもなくペンを走らせている。
こちらもなんとか立て直そうと第四問を開いた。
ーーー
『大陸暦212年に終結した「第二次種族大戦」の講和交渉において、人間・ドワーフ連合側の主席交渉官ドナル・ヘイズが……』
種族大戦。
……ドワーフ?
今度はしばらく動けなかった。
30秒ほど固まったあと、捨て問にするか考えた。
表現が独特なことに加えて、ドワーフという明らかに架空の存在が登場する違和感。
ドナル・ヘイズという人名には何となくヨーロッパ系の響きがあったが、それ以外の情報は読み取れなかった。
なにか書かなければと答案を埋めていくが、手短に第五問に移ることにした。ここで時間を取られてはまずいと思ったからだ。
第五問を読んだ。
『大陸暦150年以前に各地の領主のもとに設置されていた「魔導審問官」の職務内容を具体的に説明し、大厄災後の復興期においてこの役職が段階的に廃止された政治的・社会的背景を論じよ』
魔導審問官。
さすがにどう考えても実在しない役職だった。
「魔導」という言葉は三問目の「術式」と同じ系統の単語だ。
大厄災というのも、さっきから出てくる「大陸暦」と地続きの世界観にあるようだった。
───なぜか、アルカナ大陸という場所の話が、一貫して出題されている。
出題者の意図が読めない。
なぜ架空の、あるいは少なくとも受験生の大半は知らないであろう世界の話が、東大の社会の試験に出てくるのか。
もしかして現代の政治問題を歴史的に読み替えて出題するタイプの問題なのか。
それとも本当に知識が足りていないだけなのか。
第五問の白紙を埋める前に、第六問を読んでおくことにした。
『大陸暦214年の「アルカナ教育基本条約」に先立つ議会審議において、エルフ貴族代表のヴェイラス・ソーン元帥が提唱した「諸種族共存宣言」は、保守派から激しい反発を招いた。その反発の主な論拠を述べよ。また、宣言が最終的に条約の基礎理念として採択されるに至った政治的経緯を、各勢力の利害関係の変化という観点から論じよ』
諸種族というからには、複数の種族が存在するということだろう。
そしてエルフ貴族代表というのは、エルフが政治的な発言権を持っていることを意味している。
……人間だけの世界ではない、ということだろうか。
先ほどの問題にもドワーフがいたのを思い出す。同じ世界にエルフがいるのは自然だった。
第三問の「灰野の戦い」から始まって、第四問の「第二次種族大戦」、第五問の「魔導審問官」、そして今この問題。
まるで、知らない世界の入試問題を解いているようだ。
深呼吸をした。
おかしい。
会場がおかしい。
ずっと気にしていなかったが、周囲の空気が変わっていた。
隣の席のシャーペンの音が、いつの間にか聞こえなくなっている。
代わりにあるのは、紙を擦る音と、重く湿った息遣い。そして、なぜか微かな土の匂い。
顔を上げた。
───目に入ったのは、耳だった。
前から二列目に座っている受験生の、頭の左右から伸びた、細く尖った耳。
長さは40センチを超えているだろう。蛍光灯の白い光の中で、その表面がわずかに透けて見える。
隣の席にも同じ形の耳があった。その隣にも。
視線を横に流した。
窓側の列に三人並んでいる小柄な受験生たちの肌が、淡いみどり色をしている。
一人は眉間に深い皺を寄せて問題用紙をにらみ、唇を小さく動かしていた。
別の一人は答案用紙の欄外に何かを書いてから、ためらいがちに消している。
それ自体は試験中によくある光景だ。
……肌の色が、俺の知っている人間のものではないことを除けば。
後列に目を向けた。
体格が尋常ではない受験生が、机に上半身を押し込むようにして座っている。
顔の両側に白い牙が湾曲しており、息を吐くたびに胸が大きく動いた。
その二つ隣には、全身が短い茶色の毛に覆われた受験生がいて、指先に生えた鋭い爪を器用に折り曲げながらペンを持ち、ゆっくりと文字を書いている。
書いている内容を盗み見るつもりはなかったが、アルカナ大陸の問題については、俺よりずっと詳細に記述しているようだった。
そして、斜め前方の席。
椅子の上に、半透明のゼリー状の物体が乗っていた。
敢えて直径でいえば50センチほどだろうか。
縁がゆっくりと波打ちながら、全体がわずかに上下に揺れている。
その内部に答案用紙が沈んでいくのが見えた。
……スライムが、試験を受けている。
しばらくすると、用紙は記入済みの状態で静かに押し出されて机の上に戻ってきた。
教室の中を、端から端まで見渡した。百人近い受験生のうち、俺のように人間に見える者は四人……いや、三人か。
一人は耳が少し長いような気もしたが、確信が持てなかった。
紙をめくる音も、咳払いの音も、ペンを置く小さな音も、何も変わっていない。
試験は俺を除いて、平静を保ったまま続いていた。
夢中で観察しているうちに、通路を歩いてきた試験官が俺の席の横で立ち止まった。
紺色のスーツに白いシャツ、よくある試験監督者の格好だった。顔は普通の中年男性のように見えたが、瞳孔が縦に細い線になっている。
「……なにか問題でも」
声は静かで、低かった。
どこから説明すればいいのかわからなかった。
問題があると言っても、この人は俺の問題を問題と思っていないだろう。
一体、何を聞けばよいのか。
「ここは、」
俺は言った。
「どこですか」
監督は一瞬だけ表情を動かした。
困惑ではなく、確認するような間である。
「G-MATS試験会場、第3学区域 第129番教室です」
G-MATS?
なんの略称かもわからないが、少なくとも東大入試ではないようだった。
「第六問の解答欄は、裏面に続いています。時間はまだあります」
試験官はそれだけ言って、挙手している別の受験生の方へ歩いていった。
俺が人間ではない生き物たちを凝視していたことは見逃されたようだった。
しばらく呆然として、答案用紙を見ていた。
死んだのかもしれないと思った。
異世界転生というやつだ。
あるいはそれに近い何かが起きたのかもしれない。
どちらにしても、自分が今いる場所は、朝まで自分がいた世界ではない。それだけは確かだ。
時計を見た。残り40分ある。
問題用紙を手に取り直した。
第六問の続きを読む。
設問の人物が何者で、宣言がどんな内容だったかは、俺にはわからない。
でも設問の構造は読める。
「反発の論拠」と「採択に至った経緯」を、「利害関係の変化という観点から」書けと言っているのだ。
答案欄にペンを当てた。
握り慣れたシャーペンが、いつの間にか見知らぬ異界の筆記具に変わっていた。そんなことはどうでもよい。
───既得権益を持つ保守層がなぜ共存に反発するか。
───それでも最終的に採択に至るとすればどんな圧力や妥協があり得るか。
わからないなりに書くしかない。
なにか書けば部分点が降ってくる可能性はある。
俺は今度こそ迷わず書き始めた。
この世界のことは、試験が終わったら考えよう。




