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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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さようなら

「勇! お疲れさん!」

「……」

「無事に送り出せて良かったな。お前もようやく一人前だ」


 勇の仕事は、滞ることもなく順調に終わった。誰もが納得し、ようやく一人前だと認めてくれる。


 だが……嬉しいはずなのに、それを喜ぶ余裕がない。


「……」


 勇は苦しそうに目を伏せ、何度も息を詰まらせた。

 何か一言でも発したら、立っていられなくなりそうな予感が拭えない。


「……どうした? 顔色が良くないぞ?」

「……いえ」


 何とか発した言葉は、それだけだった。

 その後は必死に感情を飲み込み、なんとか一日の仕事を終えた勇は帰路についた。


「……」


 部屋に入り、襖を後ろ手に締める。

 いつも通りの静まり返った部屋が、やけに重たく物悲しく見えるのは、明日宿舎へ移る為に片付けられたせいかもしれない。自分の部屋なのに、別の場所に入ってしまったかのような、不思議な気分になる。


 ふと、何気なく机の上に挿したままのほおずきに目が向いた。勇はゆっくりとそのほおずきに歩み寄り、そっと手に取って見つめる。

 実を包んでいたオレンジ色の袋の部分は網目のようになり、中の実はすっかり萎んで変色し、硬くなっていた。


 触れれば、すぐに壊れる危うさがある。

 

『私ね……もう、ここに……いられなくなるんだよ』


 酷く寂しそうに呟いた小春のその言葉が、脳裏に蘇る。それは勇の聞いた小春の最後の言葉だった。


 最後の言葉がそんな寂しい言葉じゃなく、もっと明るいものだったなら……結果が同じだったとしても、幾らか気持ちも違っていたのかもしれない……。


 勇は肩を落として頭を下げると、机の傍に置いてあったゴミ箱の中にほおずきをそっと手放すように静かに入れた。


 かさり、と音が鳴り、網目状の袋が崩れ落ちる。


「……っ」


 その瞬間、堪えていたものが溢れ出した。

 よろめくように体を揺らして片手を机につき、口元を塞ぐ。


 張り裂けそうなほど、胸が痛い。


 深く眉間に皺を刻み食い入るようにほおずきを見つめる目からは、止めどなく涙が零れ落ちた。そして、崩れるようにゆっくりとその場にしゃがみ込むと、小さく、くぐもった嗚咽を漏らしながら勇は泣き崩れた……。


 肩を震わせてむせび泣く勇の背後に、夕闇迫る窓の外から一枚の桜の花びらが舞い込んだ。



              ****



 翌日。

 大きめの鞄を一つ手に持った勇は、玄関先に立っていた。


「……忘れ物はない?」

「大丈夫だよ」


 本人はいたって普通にしているつもりで笑う。しかし一葉はじっと勇の顔を見つめ、そっと手を伸ばして勇の頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。


「……よく、頑張ったわね」

「……」


 一葉の言葉に、勇の胸がぐっと詰まる。

 ふっと笑みを浮かべ、勇の肩についた小さな埃を払い、着崩れかけている服の皺を伸ばすように身だしなみを簡単に整えながら一葉は言葉を続けた。


「あなたは、私とお父さんの自慢の息子よ。胸を張りなさい」

「……はい」


 その言葉を聞いた一葉はにっこりと微笑むと大きく頷き返す。


「いってらっしゃい」

「……母さん」


 勇は一葉に対して敬礼をしてみせる。そして、手を下ろし深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 顔を上げた勇はゆっくりと背を向けて歩き出す。

 そんな彼の姿を見えなくなるまで見送った一葉は、大きく息を吸い目尻に滲んだ涙を指先で押さえ、家の中に戻っていく。そして、静まり返った勇の部屋になんとなく足を向けた。


 綺麗に片付けられ、机と本棚しかない、殺風景な部屋に寂しさが胸に迫る。


「……とうとう、行っちゃったわね」


 目を細めため息交じりにそう呟く。その時、ふと、ごみ箱の中にあるほおずきに気付き、それをそっと拾い上げた。


 形が崩れたほおずき。

 これを、どんな思いで勇に渡したのかと思うと、居た堪れない。


 ――結局、あの子は、最後まで「私を連れて行って」って、言えなかったのね……。


 一葉は寂しそうに、そのほおずきを見つめていた。

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