春が来て、桜舞う.弐
勇はその晩、眠ることができなかった。
あの夏祭り以来、小春と会っていないのだから知らないのは当たり前だ。それでも、直前まで知らされなかったことにショックを覚えたのも否めない。
「……」
深く、少しだけ荒いため息を吐きながら、勇は天井を見つめていた視界を塞ぐように腕を目の上に置き、掛けていた布団を逆手できつく握りしめる。
――せめて、最後くらいは会いたかった。まだ、何も言えてないのに……。
何も言わずに行こうとしている小春の気持ちを汲みたかった。彼女なりに考えて出した答えだという事は頭では理解できても、勇はまだ何も言えないままだったことに、強い未練が残る。
――今更、こんな気持ちになるなんて……。
今すぐにでも彼女の腕を引いて引き止めたいと、思ってしまう。
それが叶わないことも、十分すぎるほど理解はできている。どこにも行かず、傍にいて欲しいとハッキリと自覚して思ったのは、今が初めてかもしれない。
「止められるわけない……。止めたら、駄目だ……」
もしそれをしてしまったら、全てがおかしくなる。全ての歯車が狂ってしまう。
それだけは決して、犯してはいけないことだった。
「なんで、よりにもよって明日なんだよ……」
勇は苦しそうにそう呟いた。
明日は、勇が初めて、ホームから乗客を送り出す日。
ぐっと歯を食いしばり、勇は硬く目を閉じた。
***
翌日。
勇は多度津駅に朝早く出勤し、着慣れた制服に袖を通す。
上から羽織るジャケットに、白い手袋と合図灯を腰に下げ、胸ポケットには笛をしまい込んだ。
その表情は硬く、いつにも増して言葉数が少ない。
「落ち着いてやれば問題ない。お前なら、大丈夫だ」
勇の表情を見た實は、彼が緊張しているのだと思いそう声を掛けながら乗客名簿を手渡してくる。勇はそれを受け取り、何とか口元に小さく笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「硬いぞ。改札に立っている時のように立ち振る舞わんか」
「は、はい」
背中をドンと叩いて気合を入れてくる實に、勇は力なく笑いながら短く答えた。
「俺は前方に立つ。お前は中央に立って、乗客全員が乗り込んだことを確認でき次第、俺に合図を送れ」
「分かりました」
「主任も期待しているぞ」
實は珍しくふっと笑うと、自分も準備に取り掛かるためにその場を離れた。
勇は息を吐き、乗客名簿を開く。
今日に限って乗り込む人の数が多い。
最初から順に名前を目線でなぞっていくが、小春の名前がなかなか見つけられない。そうこうしている内に乗客が乗り込む時間が来てしまう。
「橋倉! 行くぞ!」
遠くで實の声を聞き、勇は全て確認できないまま名簿を窓口に戻すと、駅のホームへと向かった。
やってくる人もいれば、出ていく人もいる。
その人数がいつにも増して多いのは、春だからかもしれない。異動や出稼ぎ、独立、結婚……。皆それぞれの思いを胸に行動するのは、年初めでもある春が多い。
機関車が定刻通りホームにやってくる。降りる乗客に入り混じり、その機関車を待っていた人々が押されるように客車の中に吸い込まれていく。
「……!」
勇は必死だった。
業務に、ではない。この溢れかえる人々の中から小春を見つけることに、だ。私情で動くことが間違っていることは自覚していた。それでも、探すことを止められない。
彼女が何時の機関車に乗るのかは分からない。
この機関車ではないのかもしれない。もう一本後の可能性も……。
あらゆる思考が頭の中を駆け巡り、小春を探すことに意識を向けながらも、それでも乗客たちが怪我や危険がないよう、気を配っていた。
「あの……すみません」
ふいに背後から声をかけられた勇が振り返ると、年老いた女性と、勇よりも少し若い女の子が困ったような顔を浮かべて立っている。時折人に押されてよろめき、勇は咄嗟に二人の体を支える。
「三等車は、どこから乗ればいいんでしょうか?」
「近くで待っていたはずなのに、気付いたら人に押されて、全然違う場所に追いやられてしまって……」
乗るはずの客車がどれか分からなくなってしまい、路頭に迷っているようだった。
「三等車でしたら……」
勇が二人を案内しているその後ろで、正一に守られるような形で小春が一等車に乗り込んでいく。
他の客車に比べ、中に入ってしまえば余裕があった。
「凄い人ですね……」
ため息を一つ吐きながら客車の外に目を向ける正一に、小春も同じように視線を向けながら答える。
「春は、ここから外へ行く人が多くなるんです。毎年駅は混雑してると……聞きました」
「……そう、でしたか。大変な時期を選んでしまったようですね」
正一が困ったように笑うと、小春も笑みを浮かべて首を横に振った。
その小春の手には桜の盆栽が抱えられている。
「小春さん、お持ちしましょうか?」
「……いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
小春の桜を握る手に僅かに力がこもる。正一はそれに気付くと、ふっと表情を緩めて微笑んだ。
「……座りましょうか」
「はい」
正一は小春と共に、一番奥の窓側の席を目指した。




