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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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春が来て、桜舞う

 ほんの少し前まで、ほとんど咲いていなかった桜の花が、この一週間で一気にほころび咲いた。

 山々は薄紅や白、ピンクの桜に染めあがり、吹く風に乗って花びらが空を舞う。陽の光を受けた桜の花弁は、光り輝いているように見えた。


 正一の元へ嫁ぐ日の前日の晩。

 小春は明日、袖を通す打掛の前に折り目正しく座り、静かに見上げていた。


 ――勇さんには、会わないで行こう。


 着物を見つめたまま、小春はそう胸に決めた。明日、多度津を離れる。そのことも、勇には言わずに行こうと決心していた。


 小春は、ふっと瞼を伏せる。


 ――会ってしまったら、全部が揺らいでしまいそうだから……。


 明日、正一が迎えに来る。

 小春はぎゅっと膝の上の拳を握りしめた。


 生まれ育った、大好きな場所。育ててくれた両親、町の人。

 身を焦がすほど、深い想いを教えてくれた大好きな人……。


「……ごめんね。せめて最後くらい、ちゃんと、ありがとうって言うべきなんだよね」


 握りしめた指輪の上に、ぽたり、と、一粒の涙が落ちた。


「そんな簡単なことも、できなくてごめんね……。代わりに、あの時買ってくれた盆栽を連れて行くから……」


 ここにいない勇に向けて、小春は小さく謝罪の言葉を口にした。



                 ****



「いよいよか……」


 その日、弥七は居間でしんみりとしながら酒を飲んでいた。その弥七のそばにはキヨが座り、感慨深そうに頷き返す。


「……いよいよですね」

「長いようで、短かったなぁ……」


 哀愁たっぷりに呟き、弥七はお猪口の中の酒を煽る。

 小春が産まれてから十九年。長い人生の大半を費やしたが、こうしてみればなんと短い年月だっただろう。離れ難い気持ちはある。本当はずっと手元に置いて、誰にもやりたくはない。

 それほどに可愛くて仕方がない娘の門出を、祝ってやるのもまた親の務め。


 その後、弥七とキヨは口数少なく、詰まる思いを胸に緊張していた。

 すると閉じていた居間の障子の向こうに、人の気配を察すると弥七は無意識にごくりと喉を鳴らした。


「入りなさい……」

「……」


 障子の向こうに弥七が声をかけると、小春はゆっくりと、静かに障子を開ける。それに合わせて弥七とキヨもそちらを振り返った。


「……」


 一時の間、三人親子の間に沈黙が落ちる。

 キヨは静かに見つめていたが、堪えきれないのか目に涙が滲み目尻をそっと着物の袖で押さえた。

 小春はそんな母の姿につられて涙が零れそうになるのをぐっと堪え、正座をしている膝の前に手をついて静かに口を開く。


「……お父さん、お母さん。小春は明日、お嫁に参ります」


 冷静な言葉に覚悟と、瞳の奥に滲む未練が見える。

 キヨは涙ながらに言葉なく何度も頷き返し、弥七は沈黙を守って静かに小春を見つめていた。


「今まで育てて頂き、本当に……ありがとうございました」


 小春はそう言うと三つ指をついたまま、軽く瞳を閉じて深く頭を下げ、再び三人の間に短い沈黙が落ちる。

 弥七も、微かに目元を赤らめながら小さく何度も頷き返し、一度小春から視線を外した。大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着かせると再び小春へ向き直る。


「……小春。幸せになるんだぞ」


 その一言に、小春は顔をゆっくりと上げるとやんわりと笑みを浮かべた。


「……はい」


 小春は僅かに顔を歪めてそう答えると、キヨが小春を抱きしめた。


「辛いことや、困ったことがあったらいつでも連絡するのよ」

「……はい」


 こみ上げる涙を懸命に堪えながら小さく頷き、小春は母を抱きしめて「ありがとう」と告げた。

 連絡はするかもしれない。でも、帰ってくることはもう……できない。

 両親に感謝の言葉を告げた時点で、小春はもう自分は大原の人間なのだと再確認した。




              ****



「勇、ちょっといいかしら?」

「いいよ」


 その頃、部屋で宿舎へ移るための支度をしていた勇の元へ一葉が訪ねてくる。

 ふすまが静かに開かれるのと同時に、鞄を締めた勇が母を振り返った。


「もう片付けちゃったのね」

「うん。明後日には宿舎に移るからね」

「……そうね」


 一葉は、机の上に置かれたままの枯れてしぼみ切ったほおずきを見て、静かに口を開く。


「そのほおずきは、どうするの?」


 勇は一度そのほおずきに目を向けると、一瞬動きを止めた。だがすぐにゆっくりと一葉を振り返り緩やかに笑った。


「……捨てていくよ。もう、枯れてるし」


 静かにそう言う勇の言葉には、ほんの少しの未練が滲んでいる。それでも、捨てていく決断をしたことで、勇の確かな一歩を見た気がした。


「そう……。それが、いいのかもしれないわね」

「……」


 一葉もまた小さく笑いながら頷き返す。


「勇」

「?」

「……小春さんね、明日嫁ぐんですって」


 静かに話す一葉の言葉に、勇の胸が大きく跳ね、思わず息を飲んだ。そして視線を泳がせながら顔を下げ、短く息を吐く。


「……そう、なんだ」


 自分は、何も知らない。

 彼女が明日嫁いで行ってしまうなんて、知らないままだった。

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