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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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変わる関係、変わらない日常

 勇が再び仕事に戻ったのは、あれから三日後のことだった。病み上がりからすぐ現場復帰に周りも気にかけたが、勇は何ら変わらない様子で仕事をこなす。


「勇。お前の申請していた仕事の予定だがな、こっちで少し訂正させてもらったぞ」


 實がそう言いながら、勇に直した予定表を渡す。

 見れば、ほぼ隙間なく勤務希望を入れていた予定には、合間に休みを挟まれている。


「あの……こんなに休みは……」

「あのな。過密に予定入れて今回寝込んだのはどこの誰だ? 急に休まれる方が現場としては対応に困るんだ。黙ってそれで従っておけ」


 じろりと睨むように見てくる實に、勇はそれ以上何も言えなくなる。

 時間にゆとりが出来ると、気持ちにゆとりがなくなってしまう。そんな予感が払拭しきれないまま、勇は首を縦に振るしかなかった。


「分かりました……」

「休むのも仕事の内と心得ろ」

「はい」


 頭を軽く小突いて、實は仕事に戻っていく。

 勇は小さくため息を吐き、再び予定表に視線を戻すと、ふとあることに気付く。

 前々から希望していた職務に、来年の春には立つことができるようになっていた。

 

「……」


 勇は予定表を掴む手に力が僅かに入る。


 ――ようやく、ホームに立つことが許された。


 願っていた職務に立てることに胸がいっぱいになる。「多くの人を送り出したい。そして迎えたい」それが、勇が駅員としてでやりたい仕事だった。

 窓口や改札とは違う、間近に機関車に乗る人々顔を見て送り出せる醍醐味は、ホームに立ててこそと、勇は思っていた。


 ――父さんに追いつけた。


 そう思うと、少し胸が軽くなる気がした。

 幼い頃から父の背を追い、父と同じこの仕事を選び、この仕事で生きていく。

 その夢は確実に、勇の足元を固めている。ただ、今までのように、当たり前にそばにいて欲しいと思う人がいなくても……。






 やがて、冬が過ぎ、年を越える。

 春が近付き、また桜の季節が巡ってこようとしていた。

 小春は、大きなボストンバッグに荷物を詰めて、自分が長い間過ごした部屋を見回す。


 今、部屋にあるのは、嫁入りの日までの残りの時間を過ごせるだけの洋服と化粧道具、そして当日着る着物と結納品として贈られた、赤を基調とした見事な打掛だった。


「……」


 美しい打掛を見つめていた小春は、ふっと息を吐き静かに視線を外して他へ視線を向けた。


 部屋の隅にある柱には、幼少期から成長するたびに、どれだけ伸びたか付けた傷も懐かしくて愛しい。

 窓から見える人々の往来や、慣れ親しんだ人達の談笑する声も、当たり前のように聞こえていた時はうるさく思うこともあったが、今では離れがたい思い出として胸に込み上げる。そして……。


「結局、咲かなかったな……」


 二年前、初めて自分から勇におねだりした桜の盆栽は、花を咲かせることはなく、青々とした葉を付けるばかりだった。


 ――持って行くの、やめようかな……。


 盆栽を見つめ、小春は自分の気持ちに見切りをつける意味でも、迷っていた。それでも、やはり心のどこかでは手放し難く思っている。


「……もう少し、考えよう。まだ……一週間あるもの」


 小春はポツリと呟き、桜の木に触れた。

 本当は、もう考えることをやめようと何度も思った。これからのことを考え、切り替えていこうとしては、ふいに立ち止まってしまう。


 ――この町は、勇さんとの思い出が強すぎる……。忘れたくても、忘れられるわけないよ。


 だからこそ、ここを出なければならない。


『あの子のためにも、あなたはきっと幸せになってくださいね』


 昨年の暮れに受け取った一葉の願いは、勇の願いに通じる部分がある。だから前を向かなければいけない。

 小春は心に強く、そう思った。

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