何も言わずとも
正一が小春の元を訪ねてきた翌日。勇は、この日も仕事に勤しんでいた。
多くの乗客の切符を改札口で切って見送り、降りてくる乗客の切符を預かる。休憩時間が来るまでの間ずっと改札に立ち続けていた。
幾つも手のひらに血豆を作りながらも、いつしか切符を切るための鋏の扱いにはすっかり慣れ、客捌きも早くなり、よく利用する客と顔馴染みになることも多くなっていた。
今日は比較的、客足は落ち着いている方だった。
「今日はどちらまで行かれるんですか?」
顔馴染みの女性が差し出した切符を受け取り、鋏で切り込みを入れて笑顔で返しながらそう訊ねると、女性はにっこり微笑みながら答えた。
「今日は高松まで。楽しみにしていた活劇が来てるの」
「そうですか。お気をつけて」
「ありがとう。いつもご苦労様」
女性はにこやかに頭を下げて、そそくさとホームへの道を急ぐ。
その後数人の客を見送った後、鋏の切れ味が落ちたのか別の備え付けの鋏を取り出そうとした時、再び目の前に一枚の切符が差し出される。
「少々お待ちください」
勇はすぐに新しい鋏を手に取って切符を受け取り、切込みを入れて何気なく顔を上げた。すると、そこに立っていたのは正一だと気付き、一瞬動きが止まる。
「こんにちは」
「……あ、どうも」
「忙しそうですね」
「え、えぇ、まぁ……」
我ながら驚くほどたどたどしくなってしまう反応に、苦笑いをしてしまいそうになる。
――そう言えばここのところずっと見かけなかったけど……。
この二年、いつも足繫く小春の元を訪ねて来ていた正一の姿を見ていなかったことに今更気付いた。
ちらりと待合スペースを見るが、他の乗客の姿はない。
勇は少し躊躇いながらも正一に話しかけた。
「ここのところ、お見掛けしていないように思いましたが、大原さんこそお忙しかったんですか?」
「はい。海外へ仕事に行っていました」
「海外へ? それは……凄いですね」
ぎこちない笑みを浮かべ、僅かな驚きと共に勇の胸が少し重くなる。
――やっぱり、彼は凄い人だ……。
そう思う傍ら、海外に行っていた彼が今ここにいるという事は小春に会いに来ていたのだとすぐに理解できた。以前、小春の両親が嬉々として正一のことを周りに吹聴していたことを考えれば、おそらく彼は……。
「今日は、もうお帰りになるんですか?」
「……はい。実家に寄らずに直接来たので」
「……そ、そう、ですか」
「……」
互いの間にぎこちない空気が生まれる。
ほんの僅かな時間の沈黙が二人の間に落ちた。共に、何かを言いたそうにしていたが、言葉が見つからない。
「あの……」
正一が口を開いた瞬間、他の乗客が数人待合室に流れ込んでくる。
切符を購入し、改札口へとやってくると勇は「すみません」と一言断りを入れて乗客の対応へと移った。
「勇くん、今日も忙しそうだね」
「そう言えばお前、最近ずっと仕事詰めになってるんだって? 勘助が心配してたぞ?」
「あまり無理したら駄目よ?」
顔馴染みの乗客たちは、それぞれ勇から切符を受け取りながら声をかけると、勇は困ったように笑いながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
そんな彼らのやり取りを見聞きし、正一は神妙な面持ちで勇を見ていた。
「では皆さん、お気をつけて」
「お前もな」
男性が勇の肩にぽんと手を置き、そして連れだって駅のホームへ向かう姿を見送った。
「……勇さん」
「……はい?」
声を掛けられた勇が振り返ると、正一は神妙な面持ちのまま眉間に深い皺を刻んだ。そして何かを言おうと口を開きかけたが、やはり言葉が出て来ず僅かに視線をそらした。
「……体には、十分お気を付けください」
「あ……はい。ありがとうございます……」
やっとのことで言えたのはそれだけだった。それに対し、勇が素直に礼を述べると正一は駅のホームへ向かおうと踵を返す。しかし、今度は勇が彼を呼び止めた。
「あの」
「……」
「……小春は、元気にしていましたか?」
とても気が引けているのだろう。申し訳なさそうに、先ほどとは違う元気のない声で訊ねると、正一は一瞬言葉を飲んだ。
「……はい。お元気でした」
「そうですか……。では、お気をつけて」
元気だった。そう聞いて、勇の表情は明らかに安堵の色を見せ頭を下げる。
正一はそれ以上何も言えず、静かに帽子を取って頭を下げると今度こそホームへと足を踏み出した。




