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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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48/52

時は無情に

「橋倉。お前、最近どうしたんだ?」

「どうって……何がですか?」


 今日機関車にのる乗客名簿の確認していた勇のところへ、彼の直属の上司にあたる本条實ほんじょうみのるが、怪訝そうに訊ねてきた。

 彼の意図する言葉の意味が読み切れず、勇は不思議そうな顔で見上げる。


「何ってお前……そこまで根を詰めて業務をやるような奴じゃなかっただろ」

「……」


 自分で分かってないのか? と言う實に、勇は口をつぐんだ。

 ここのところ、朝早くから駅に入り夜遅くまで片付けなどの業務をこなして、毎日ヘトヘトになるまで仕事をしている。

 大きな自覚はない。ただ、気を紛らわせたいがためにスケジュールを詰め込んでいたのは確かだった。


「……何かあるなら、相談に乗るぞ?」

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「あまり無茶はしてくれるなよ。体あっての仕事だ」

「はい。すみません、ありがとうございます」


 そう言うと實は自分の持ち場に帰っていく。

 鬼教官と言われるほどの上司に心配をかけてしまうほど、がむしゃらに働き詰めにしたのは、ほんの少しでも時間ができると考えてしまうからだ。

 あの時の小春の表情を。彼女が残した言葉を。あの夜に触れた、微かに震える手の感触を……。

 思い出す度、「間違っていたのかもしれない」と思ってしまう瞬間が……怖かった。


「……」


 勇はぐっと口を引き結び、手元にある旅客者名簿へと視線を落とした。

 手に握り締めた鉛筆が、名簿に僅かに沈み込む。そして、遠くで鳴くひぐらしの声がやけに物悲しく耳に届いた……。





 あの夏祭り以来、二人は会っていない。

 やがて夏が終わりに近づき、吹く風が冷たくなってくる。木々は葉を落として赤や茶、黄へと染まり始めた。

 秋が深まるそんなある日。多度津駅にいつも通り機関車が到着する。

 灰色の煙をあげながら汽笛を鳴らし、ゆっくりとホームに到着した機関車の客車から、ぞろぞろと人が降りていく。その中に一人の青年がいた。

 彼はホームに降り立つと、かぶっていた帽子を取り胸の前に置いて深く息を吐く。


「……久し振りだな。全然変わってない」


 感慨深くそう呟いたのは、正一だった。

 ようやく海外から戻って来た正一は、小春に手紙で告げてあったように、帰国してそのままの足で多度津へとやってきた。


「……」


 二年前と何も変わっていない風景。街行く人たちの姿。

 そんな風景を見つめる正一の表情は、どこか硬い。二年前のプロポーズの返事を聞くために来ていると言うのももちろんだが、それ以前に正一には不安な部分もあった。


 ――この二年……。小春さんたちは、どんな生活を送っていたのだろう。


 不安に思わない時はなかった。それでも、正一は一つの覚悟を決めている。


 ――彼女が何を選ぼうとも、決してその選択を責めたりしない。


 吹く風の冷たさに、正一は一瞬目を細める。


 ――この二年で、充分覚悟は決めてきた。


 遠くを見つめていた正一の背後で、発車の合図の汽笛が鳴る。その音に押されるように、正一は持っていた帽子をかぶり直し、小春のいる米屋へ向けて足を踏み出した。

 

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