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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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もう戻れない

「……っ」


 今までと様子が違い過ぎる小春に、勇はただ焦っていた。小春の呟きも、聞こえなかったわけじゃない。

 遠くのお囃子や太鼓の音と鈴虫の鳴く声だけが聞こえる中、二人は少しの間沈黙を守る。

 勇は、目の前にいる小春へと視線を巡らせた。


「……」


 綺麗に化粧を施し、いつもよりも大人びた柄の浴衣を選んでいる小春に、言葉が出ない。

 そうして小春が綺麗に着飾る時は、いつも決まって正一がいる時だということを知っている。だから当然、この祭りも正一と行くのだろうと思っていた。


 ――でも今の、小春の言い方って……。


 そう思うと、胸の奥にわだかまったままの、まだ名前が付けられていないものが晴れるような気がした。初めてそれがどういうものなのか、朧げな輪郭がはっきりしそうで……。

 そう思うと、自然に顔に熱が集まってくる。だが、勇は自らそれに蓋をした。否――そうしなければならなかった。そうでなければお互いに、あまりにも失うものが多すぎるから……。


 ――これは、たぶん、俺だけが背負えばいい……。


 勇はそう思いながら、躊躇いがちに視線を下げる。


「……ごめん」


 勇が短く謝ると、小春は唇を噛んだまま小さく首を横に振った。


「私も……ごめんなさい」


 小春は一度目を閉じて大きく息を吸うと、いつもと同じように穏やかな表情を見せて勇を見上げる。

 これ以上、踏み込んだらいけない……。小春は自分にブレーキをかけた。


「……お祭り、行こ?」

「……」


 小春に誘われ、勇は気後れしながら小春と並んで歩き出す。

 本町通りに戻ると、皆同じ場所を目指して歩いて行く姿が目に映る。一人で向かう人も当然いる中

、やはり目立つのは誰かと一緒に歩く人の姿が圧倒的に多い。

 そんな彼らを見ていた勇は、少しだけバツが悪そうな顔で視線を他へやり、小春は真っすぐに仲の良い彼らの姿を見据えている。


 ――いいな……。


 どうしても、周りの人たちの仲の良さが目につき、羨望の眼差しで見てしまう。

 もし、自分が浪越の人間でなかったら、今も昔と変わらず勇の隣にいられたのかもしれない。何のしがらみもなく、何の壁もなく、昔のように……。

 小春は手にしていた巾着をぎゅっと握り締めた。

 

 ――分かってる。私、ちゃんと分かってるよ……。私が選ばなきゃいけないものがなんなのか、勇さんが何を選ばないのか……。


 それでも、これは私の賭けなんだ。そう思い、隣の勇をちらりと見上げる。


 ――あぁ、でも……。


 小春は勇の横顔を見ていると、胸が苦しくて仕方がない。

 彼は隣で歩いている。ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離にいる。きっと、昔みたいに我儘を言えば、文句の一つでもこぼしながら応えてくれる。


 ――でも、きっと彼は……。


 小春はぎゅっと目を閉じ、小さく頭を振って息を吸い込む。

 彼が見ているものが何なのか、守らなければならないものが何なのか……。

 それは小春が思うより、少しだけ先のことで、少しだけ視野が広いことだと言うことを知っている。


 ――分かってる……私、ちゃんと分かってるよ……。


 遠くで聞こえていたお囃子や太鼓の音が目前に近づいた。

 通りの両側に露店が並び、通りにはたくさんの人で溢れ返っている。金魚すくいに奮闘する人や、飴細工を買う人、焼き物を手に談笑しながら歩く人。美味しそうな醤油や甘い砂糖の香りが充満するこの光景に、小春は瞬間、足が止まった。


「……小春?」


 勇が数歩先で足を止めて振り返ると、小春はどこか切なそうな顔を浮かべて勇を見た。


 ――これから先この景色の中に、私、もういないんだ……。


 郷を離れて嫁いで行ったら、ここにはもう、何もなくなってしまう気がした。

 そう思うと色々な感情が沸きあがる。急に目の前の石畳みと自分との間で目に見えない線引きが見えるようで急に怖くなった。


 将来に、夢も希望も安心できる環境も全てある。これまでと変わらない生活を送れて、順風満帆な間違いのない未来が待っている……。でも……。


 ――きっともう、帰れない。


 胸にこみ上げる感情に、涙が溢れそうになった。


 ――まだ。まだ駄目……。


 小春は息を吸い込みながら瞬きを繰り返し、一度視線を横へそらす。そしてゆっくりと息を吐いて足を踏み出し、勇の隣に立つ。


「ごめんなさい。この風景、凄く綺麗だなって思ってつい、見入っちゃった」

「……」


 すっかり、嘘を吐くのが癖になった。

 心の中で、小春は自嘲する。


「勇さん、あれ、見てみない?」


 何事もなかったかのように指さす先に、お面がある。


「行こ?」


 小春はそう言うと、歩き出したが、勇の足はすぐに動き出さなかった。

 振り返った先に一瞬見えた、彼女の心の断片。それが垣間見えてしまい、喉の奥が絞まったような呼吸のし辛さを感じ動けなくなった。

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