覚悟
七月が過ぎ、本格的な夏がやってくる。
忙しなく鳴く蝉の声も本格化し、照り付ける太陽の日差しは肌を刺すように痛い。暑い季節になってから、近隣の海では海開きがあり、子供たちはこぞって海に入り遠泳する姿も見て取れるようになった。
町ではお盆に入って間もなく、縁日に向けての準備が少しずつ進められていた。
広間に櫓を組み立てるために、町民の比較的若い男たちが駆り出され、至る所に提灯がぶら下げられる。出店用の小屋も通りに沿っていくつか建てられ始め、皆揃って楽しみにしていた。
そして、当日。
小春は自室の窓から本町通を通る人たちを見つめていた。
祭り自体は昼から始まっているが、本格的に人が増えるのは夕方からだ。
楽しそうに会話をしながら歩く人々の姿を見つめながら、小春は手元にある手紙に視線を落とした。
『来月の下旬には日本に帰国致します』
そう書かれた正一の手紙だった。
「……」
もう、残された時間は、ない。
小春は瞳を一度閉じると、大きく息を吸い込んだ。そしてゆっくりと目を開き、手にしていた手紙を文机の上に置くとゆっくりと立ち上がった。
箪笥の傍に歩み寄り、一番下の引き出しを開ける。そこにはとても淡い色合いの、露芝柄の浴衣がしまわれていた。
――もう、迷えない。だから……。
小春はそっとその浴衣を取り出し、姿見の前に立った。背中のファスナーを下ろして、正一に贈られた洋服を脱ぎ、浴衣に袖を通し始める。
丁寧に着付ける手つきに無駄はない。襟足を抜き、黒地の波頭柄の帯を締め、髪を結い上げた頭にはアヤメの花をあしらった簪を挿す。顔には控え目に化粧を施し、小さな丸い入れ物を開いて薬指の先で薄く紅を引く。
「……」
鏡に映る自分の姿に、幼さは感じられない。あるのは、しっとりとした大人の姿。
小春はしっかりと鏡越しに見つめ決意を改めて小さく頷いた。その瞳には強い意志と、覚悟が垣間見える。
――約束はしてない。来るかどうかも分からない。でも……もう決めた。
小春は小さな巾着を手に取ると、下駄を履いて外に出た。
まだ陽は高い。日傘を手に小春は迷うことなく真っすぐに目的地に向かう。
本町通を通り、途中で横に道をそれて少し歩いた先。一軒の家の前で立ち止まると、小春は家の向かいに立っている街灯の下に、壁を背にして立った。
「……」
暑い夏空の下、目の前を通り過ぎていく子供や大人たちを見送りながら、小春は黙ってその場に立ち続ける。蝉の声を聞き、暑さにじっとりと肌が汗ばむ。首筋を伝って背中に汗が流れる感覚を感じ、時折持ってきたハンカチで汗を押さえた。
「今日のお祭り楽しみだわ」
「そうだな」
目の前を腕を組んで歩くカップルに、小春は思わず日傘を傾けて視界を遮る。
カラコロと音を立てて歩く二人の姿を日傘の影から窺うように見送り、小春は細く長いため息を吐いた。ふと周りに目を向けると、浴衣を着た親子や夫婦、カップルの姿が少しずつ増えてきたように思う。
「……」
どれくらいの時間、ここに立っているだろう。
小春は何気なく空を見上げた。いつの間にか、空には茜色が差しはじめ、気温も少し落ち着き始めているように思う。それでも、小春はここから離れることをしなかった。ただ、時間が進むに従って焦燥感に駆られ始める。
――もし、来なかったら帰ろう。
そう思うものの、自分の中では納得できていない。
鼓動が早くなっていくのを感じた。
――もし来なかったら、もう、期待しない……。
ぎゅっと胸の前で手を握り、瞼を伏せた。
来てほしい……。そう願う気持ちと考えが相反していることは分かっている。
そうしている内に陽はどんどん傾き始め、茜色の空は紺色に染まった。遠くの空に僅かに滲む夕陽と、祭りが始まった合図であるお囃子の音を聞きながら、小春は寂しそうに眉を潜めて唇を噛む。
――そう、だよね……。来るわけないよね……だって、約束したわけじゃないもの。
小春は泣き出しそうな顔を伏せて、緩慢な動きで視線をそらし家へ帰るために重たい足を踏み出した。
その時、すぐ後ろでカラカラと音を立て、扉が開く音が聞こえてくる。
「行ってきます」
聞き慣れた声が耳に飛び込んでくるや否や、小春はパッと顔を上げ、弾かれたようにそちらを振り返った。その表情は先ほどとは打って変わり、明るさを取り戻している。
「!」
扉を閉め門から外へ出た勇が、目の前にいる小春の姿に驚いて一瞬足を止めた。まさか、彼女がここにいるとは微塵も思っていなかっただけに、虚を突かれたような顔をしている。
濃紺の浴衣に明るい茶色の帯を締めた勇を見て、小春は気持ちが溢れ出そうになった。
「な、何でここに……?」
勇がそう訊ねると小春は零れだしそうな気持を抑え、僅かに視線を下げて耳の横に垂れてきた髪をかけ直す。
「……あの、ちょうど、通りかかったの」
小春が何とかそう伝えると、勇は周りを見回した。
「大原さんと、一緒じゃ……ないのか?」
「……!」
思いがけないその一言は、それまで緊張感と喜びで胸がいっぱいになっていた気持ちに、影を差した。
小春は眉間に皺をよせて顔を伏せ、悔しそうに僅かに口を尖らせる。
「……どうして、そうなるの?」
「え……」
いつもなら笑って流す小春が、少しだけ掠れた、強い口調でそう聞き返してくる。勇はそんな彼女の様子に戸惑った。
「どうしてって……だって、小春は……」
「なんで、そこで正一さんの話になるの?」
俯けていた顔を上げ、一歩勇の近くに踏み込みながら真っすぐに勇を見つめる。
微かに揺れる小春の瞳を見て、勇は言葉の続きを飲み込んだ。
「……やっぱり、そんな風に見えちゃうのかな」
詰め寄った勢いを無くし、肩から力を抜きながら視線を伏せて小春は小さく呟いた。




