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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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鉢合わせ

 ――ちょっと、長湯し過ぎたかも……。


 勇はのぼせ気味になり、脱衣所の椅子に座り扇風機前を陣取って体温を下げていた。

 着てきた浴衣の胸元は大きく緩め、体全体に冷たい風を送り込む。

 そんな姿を見ていた番台の男性が降りてきて、冷やしてあったラムネを一本差し出してくる。


「勇、大丈夫か? これ飲んどけ」


 勇はそのラムネを見て、驚いたように男性を見上げる。


「え……? いや、お金……」

「あ~、いい、いい。お前には色々世話になってるしよ。これは俺の奢りだ」


 男性は笑って手を振り、そのまま番台に戻っていく。そして何事も無かったかのようにやってきた入浴客を愛想よく出迎え始める。

 勇は一瞬固まってしまったが、受け取ったラムネを見つめ遠慮なく頂戴することにした。

 ぐいっと煽り、喉を通る冷たさと炭酸の刺激で、いくらか体に籠る熱が逃げたような気がした。


 今しばらくじっと扇風機の風に当たっていたが、ラムネのおかげもありようやく重い腰が持ち上がる。

 荷置きから自分の荷物を取り、着崩していた浴衣を整えて番台に近づいた。


「ラムネ、ありがとうございました」

「おう。また来てくれよ」


 番台の男性はにっこり笑って答えると、勇はもう一度小さく頭を下げて外へ出る。

 すっかり暗くなり、吹く風が冷たい。いくらのぼせていたとは言え、夜風に当たっていたら風邪をひきそうだと、勇は持ってきていた襟巻きを首に巻いた。


「ありがとうございました」


 勇が家へ戻ろうと足を踏み出した瞬間、清水温泉の扉が開いて聞き慣れた声が聞こえてくる。その瞬間、勇の足がぴたりと止まってしまう。

 暖簾を上げて姿を見せたのは、ほどよく色付いた肌をして、長い髪を一つにまとめ上げた小春だった。


「!」


 二人は驚いたように、一瞬その場に固まる。だが、すぐにどちらからともなくぎこちなく視線を外した。


「……き、来てたんだ」

「あ……あぁ」


 顔を俯けたまま、小春が言うと勇もまたぎこちない返事を返す。

 二人は清水温泉の前で、互いに向かい合って顔を僅かに俯けたまま黙り込む。

 何かを話そうと思うのになぜか言葉が出てこない二人の横を、何人もの他の客がチラチラと見ながら通り過ぎていく。


「……か、帰るか」

「……うん」


 やっと出た言葉は何気ない一言だったが、二人は久しく並んで自宅への道を歩いた。

 勇の歩く速さに置いて行かれそうになり、小春は時折速足になりながら歩いていると、それに気付いた勇は僅かに歩調を弱めた。

 

「……」


 それに気付いた小春が顔を上げ、隣を歩く勇の顔をちらりと窺い見る。だが、勇はその視線に気づくこともなく真っすぐ前を向いて歩いていた。

 小春が再び視線を下げると、手が、触れそうなほど近くにある。温泉に入っていつもより火照った肌の温かさだけが、小春の肌の表面を撫でるように掠めた。


「……」


 小春はきゅっと下唇を軽く噛み、再び視線を下げる。

 静かな通りに、二人分の下駄の音が響き渡った。


「……」


 勇は、何気なく隣を歩く小春に目をやると、少し顔を下げて歩く彼女の白いうなじが見える。浴衣姿にほんのりと色付く肌が、暗い夜の中で異様に目立っているように見え、慌てて視線をそらした。

 

「……久し振りだね」

「そう、だな……」


 ふと、小春がそう言うと、勇は視線をそらしたまま答える。

 二人は互いに顔を見ることもなく、それぞれに違う場所を見ながら話を続けた。


「……お仕事、忙しいの?」

「……うん、まぁ」

「……そっか」


 再び沈黙が落ちる。

 下駄の音と、どこからか聞こえてくる虫の声がやたらと耳に付く。


「……あ、えぇっと」

「……」


 勇が何かを言おうと口を開いた瞬間、小春は足を止めてすぐに勇を振り返った。彼女が止まったことで勇も足を止めるも、真正面から見つめてくる小春の眼差しに視線を泳がせる。口を開くものの言葉にならず小さく息を吸い込んだ。


「なに?」


 小春が僅かに勇に近づき、言葉の続きを促してくる。

 その顔は何かを訴えているようにも見えたが、勇は視線をそらしたままぎこちなく首を傾げた。


「……いや、あの、大原さんとは、上手くやれてるのかなって」

「……」


 正一の名前が出た瞬間、小春は明らかに表情を曇らせて肩から力を抜き、顔を俯けて視線をそらしながら再び歩き出した。 


 ――え……なんだ……?


 勇はあからさまなその表情の変化に戸惑う。

 少し前を歩く小春は、振り返ることなく静かに口を開く。


「……勇さん」

「……?」


 そして再び、小春は足を止める。そして勇を振り返ることなく一度自分の足元へ視線を下げ、何かに迷いながら小春はゆっくりと顔を上げる。


「……私、ね」

「……うん」


 勇が答えると、小春はそれっきり何も言わなくなってしまう。落ちた肩が僅かに震えているように見えたが、小春は一度大きく息を一つ吸い込むと顔を上げて空を見上げた。


「なんでもない」


 少し明るい声音でそう言うと、小春はまた再び歩き出した。

 彼女は何かを言おうとしていた。でも、何を言いたいのか読み解けない……。

 勇の心には、ただ疑問だけが残った。


 それ以上の会話がないまま、二人は小春の家の前に辿り着く。

 ゆっくりと歩を緩めて立ち止まった小春に対し、小春よりも少し先に歩いた勇も足を止めて彼女を振り返った。


「……それじゃ」

「……」


 勇が声をかけると、小春は少しの間を置いた。


「……うん」


 口を小さく引き結んで口角を僅かに上げ、勇から視線を僅かにそらしながら頷いて答える。

 勇もまた、どこか煮え切らない気持ちのまま視線をそらし、ぎこちなく小春に背を向けて歩き出す。その瞬間、小春は無意識に数歩、勇の背を追うように歩み出したがすぐに立ち止まる。

 

「……」


 小春の視線は再び地面に落ち、家へと戻っていった。

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