当たり前
その日の夕暮れ。
だいぶ陽が傾き、夜が近付く頃になって、丸亀から帰って来ていた勇は紺色の浴衣を着て、手桶と石鹸に手拭いを持って自宅から出てくる。
昼間には靴を履いていたが、素足にそのまま履ける下駄を履いていた。
「さむっ……」
陽が傾くと、やはり少し肌寒さが残る。
念のため襟巻きも巻いてきた。勇は肩を竦めて本町通りを歩いていると、同じように清水温泉に向かう人達数人と出会う。
「お、勇。今日は温泉に行くのか?」
温泉帰りの近所に住む男性が、すれ違いざまに声をかけてくる。
「はい。疲れを流して来ようと思って」
「そうか。明日仕事なんだろう? しっかり癒やされてこいよ」
男性は笑いながらそう言うと、微かに湯気の立つ手で肩を軽く叩き、鼻歌交じりに歩いて行った。
清水温泉の暖簾を潜り、男湯側に入るとすぐ傍に番頭が座って、こちらを見てきた。
「お。勇じゃないか。いらっしゃい」
「こんばんは」
勇は挨拶をして料金を支払うと、脱衣場で浴衣を脱ぎ始める。周りには家族連れも多く、顔見知りもいる。人の多さを見れば、いかに繁盛してるかが良く分かった。
――広いな……。
浴室に入ると、自宅とは違う広々とした空間に勇は驚く。しかも壁一面に描かれた風景画が、なんとも風情があった。
周りを軽く見渡し、例に習って体と頭を洗ったあと広々とした湯船に浸かると、季節的にだいぶ暖かくなってきたとは言え、まだ体の芯が冷えていると実感する。手足を伸ばせる開放感も相まって思わず深く息が漏れた。
「……」
背中を壁につけたまま、湯気で白く煙る空間をぼんやり眺めていると、隣に別の男性が座り込んでくる。
「勇。どうだ? 温泉は」
そう言いながら手拭いで顔を拭き、それを畳んで頭に乗せたのは、植木屋の源次郎だった。
「源次郎さんも来てたんですね」
「おうよ。ほんと、ここ最高だよなぁ……。腰の痛みにも効果覿面だ」
ため息混じりに呟き、肩まで浸かる源次郎は、恍惚とした顔で幸せそうに笑みを浮かべている。その時ふと、源次郎はいたずらをする前の子供のような顔を見せ、勇の肩を叩いた。
「勇、ここな、すげぇんだぞ。あれ、見てみ」
「え?」
源次郎が指差す先に目を向けると、女湯との間に壁の隔たりはあるものの、上部が空いているのが見える。そこから石鹸のやり取りをしたり、時には壁の向こうから手の先だけが見えたりしていた。
勇が驚いたようにそこから視線を外し、源次郎を見る。
「……つ、筒抜けじゃないですか」
「だろぉ? これも醍醐味だよな」
「……」
源次郎はゲラゲラと笑いながら、頭の手拭いを乗せ直す。
源次郎が余計な情報を入れてきたことで、勇はそちらに顔を向けられず、視線を下げた。
揺れる湯に映る自分の姿を見つめていると、目の前を父親と小さな男の子が手を繋いで通りかかった。
「父ちゃん、また一緒に来ような!」
「そうだな。次は母ちゃんも一緒に連れてこよう」
「うん! あと、スミも一緒に連れてきたい!」
その言葉に、父親は困ったように笑う。
「スミちゃんはスミちゃんで、家族と来るだろ」
「え〜! だって僕、スミとも一緒がいい!」
何気ない会話だったが、勇はその会話に意識を引っ張られた。
――ずっと一緒、か……。
浴室から出ていく父子の背中をぼんやりと見つめた。隣で同じように父子のやりとりを見ていた源次郎が、ふと思い出したように口を開く。
「ずっと一緒って言やぁ、お前と小春お嬢さんも小さい頃はいっつも一緒にいたよなぁ」
「……」
「当たり前のようにどこで何をするのも一緒でさ。どっちかが勝手に別の場所に行っちまうのが許せなくて、その度に良く泣いてたな」
勇はその言葉に顔を顰めた。
一緒にいた記憶はあっても、その記憶はない。
「そんなこと、ありましたっけ?」
「あったあった。覚えてないかもしんねぇけど、割と頻繁にあったぞ。家族で出掛けるって時に気付いたら、どうして自分は一緒じゃないんだーってな。その度に勘助も弥七さんも困ってたもんよ」
「……記憶にないです」
「あっはっは! そうか、ないか! まー、何ていうか、当たり前に一緒にいたからこそ、どっちかが自分の傍から離れていくなんて、考えても無かったんだろうな」
その言葉に、勇は違和感を覚えた。
一緒にいるのが当たり前……。離れていくことを考えたことも無かった……?
――それ……なんか違う。
なにか、今の自分と噛み合っていないような感覚を覚える。
ふいに勇が黙り込んだのを、源次郎は不思議に思いながら立ち上がる。
「あんま長湯するなよ。湯当たり起こすからな。俺は先に出るぞ」
「……」
珍しく返事を返さない勇に、源次郎は首を傾げながら先に上がって行った。
――確かに当たり前に一緒だった。だから、それが普通だって……そう、思ってた……はず。
勇は、胸の内に湧き上がる、見えそうで見えない感覚に、何か落ち着かなくなった。




