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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
青年期編

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36/58

良い思い出、苦い思い出

「それじゃあ、今日はありがとう。俺たちもう行くわ。また香川に戻ってきたら連絡する」

「あぁ、分かった」


 清たちは別れ際そう言うと、初も小さく頭を下げてきた。

 勇もまた頭を軽く下げて応えると三人は駅の方へ向かって歩き出し、見送る勇は肩で息を吐く。


「……少し寄り道して帰ろう」


 胸の奥に奇妙な感覚を感じながら、勇は駅とは逆の方へ向かって歩き出した。

 この、言葉にし難いものは一体なんなのだろうか。すっきりしないような、少しざわつくような、もどかしい感覚。


「……別に、悪い話じゃなかったよな?」


 一人呟く。

 確かに、悪い話ではなかった。先ほど紹介された初は、男たちにすれば魅力的に感じるだけのものはあった。それでも、勇の心には引っかからない。引っかからない分、名前が分からない感覚だけが深く残る。


 考え事をしながら適当な道を入ると、ふと目の前に菓子店が出てくる。

 何気なく顔を上げるとそこには「寶月堂」と書かれた看板が掲げられており、その名を見た瞬間、勇はぴくりと体が反応してしまう。


 ――ここは……。


 トラウマに近い感覚が蘇る。

 子供の時、勘助が土産にと持って帰ってきた栗饅頭を扱っている菓子店だ。

 味は、正直覚えていない。美味しかったのは確かなのだろうが、その後に起きた出来事で忘れてしまった。


「……」


 茫然と見つめていると、中にいた店主の女性が店の中から顔を覗かせる。


「いらっしゃい」

「あ……」

「良ければ、見ていくだけでもどうですか?」


 壮年の女性はにこりと微笑み、店の中に案内する。

 勇は躊躇いながらも女性に誘われるままに店内に入った。

 店の中には栗饅頭だけでなく、おいりや羊羹、落雁、おはぎにあんこ玉など、庶民が喜びそうな菓子が幾つか並んでいた。


「うちのおすすめは栗饅頭なんですよ」

「……」


 勇は言われるままに栗饅頭に目を向ける。

 それは、勇にとって悪い思い出を彷彿させてしまうが、ただそれだけではないことも確かだった。

 これを貰って出かけるまでのわくわくした気持ちや、一つを半分にして渡した時の幼い小春の嬉しそうな顔は、まだ微かに記憶に残っている。


「……じゃあ、この栗饅頭二つ、貰ってもいいですか?」

「はい、ありがとうございます」


 なんとなく、勇はそれを二つ頼んだ。

 綺麗に紙に包まれた栗饅頭を受け取り、金を払うと勇は店を出る。買った栗饅頭はそのまま懐の中に収めた。


「……」


 勇は、懐の栗饅頭に軽く触れ、顔を上げて視線を巡らせる。その視線の先に、丸亀城の姿が見えた。


 ――少し寄って行ってみるか。


 なんとなくそう思い立ち、勇は丸亀城に向かって歩き出した。


 その少し後に、同じく丸亀に来ていた小春が寶月堂に足を踏み入れる。

 友人と会うのに手土産を買っていこうと思っていたからだ。


「いらっしゃいませ」


 店主が笑顔で出迎えると、小春は並べられている菓子を見る。そして、やはり栗饅頭でぴたりと目が留まった。


 ――あ……これ、懐かしい。


 まじまじと栗饅頭を見つめていると、店主はにこりと笑った。


「つい先ほど、男性のお客様も買っていかれましたよ」

「そうなんですか?」


 小春が目を瞬きながら顔を上げると、店主は笑みを崩すことなく頷き返す。


「はい。うちのおすすめ商品です」

「……じゃあ、この栗饅頭二個と、おいりと……落雁四つください」

「はい。ありがとうございます」


 店主は丁寧に種類ごとに紙に包むと、小春に手渡した。

 それらを手に店を出た小春は、栗饅頭だけをそっと鞄の中にしまい込む。


 ――栗饅頭は、帰ってから食べよう。


 小春には、勇と分けて食べた記憶が焼き付いている。今となっては、大事な思い出の一つだ。

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