過去の記憶
翌日。
胸の奥に残る違和感を抱いたまま、いつも通り仕事に行った勇に、思いがけない話が舞い込んでくる。
「橋倉くん、ちょっといいか」
「あ、はい」
機関車整備の手を止め、声をかけてきた男性を振り返る。その男性は多度津駅で主任を勤めている眞鍋茂だった。
きりりとした皺も汚れもない、勇も憧れる制服を着こなした茂を前に、気が引き締まる。
勇は油の付いた手を急いで拭い、茂の傍に駆け寄ると、彼は勇を連れて少し離れた場所へ移動する。
「橋倉くん。今すぐと言う話ではないんだが、実は君に異動の話が出ているんだ」
「異動……ですか?」
その話を聞き、勇は不安に胸が鳴った。
何か仕事で大きなミスをしたのかと明らかに悪くなる顔色を見て、茂は笑いながら手を横に振る。
「あぁ、違う違う。そっちの話じゃない。君の異動先は私と同じ駅員に、と言うことだ」
「え……」
茂は口元に笑みを浮かべたまま、後手に手を組み、表情を引き締める。
「君の日頃からの仕事に対する姿勢、勤勉性、真面目さ、誠実さ。それがどうも副長や駅長の目に止まってね。君のお父さんもそうだが、整備よりも駅員として駅に立つ方が君は向いているんじゃないかと、私も思うんだ」
「そ、それはつまり……」
「君が今の姿勢を崩すことなく、二十歳になった暁には、私の下で働いてみないか?」
そう言いながら、茂は手を差し出してくる。
勇にはこれ以上ないほど嬉しいことはない。
差し出された手を見つめ、もう一度茂の顔を見つめる。そして、勇は迷うことなく彼の手を握りしめた。
「はい! よろしくお願いいたします!」
「良い返事を聞けて嬉しいよ。来年からは整備員としてでなく、駅員としての教育をしていくことになる。それまで日々しっかり、業務に励むように」
茂はそう言うと握手を解いた手で敬礼をし、勇の肩に軽く手を置いてその場を後にした。
「……っ!」
勇は主任の背中を見送った後、喜びに叫びたい声を殺し、飛び上がりたい気持ちを必死に堪えて両こぶしを握り締める。なりたいと願った夢に近づける現実を前に、喜びに胸が躍った。
その後仕事に戻った勇は、これまで共に働いた整備士たちに報告する。
話を聞いた整備士たちと、傍で指導し支えていた甚右衛門も、勇の将来の出世に対し誰もが自分のことのように喜んだ。
「将来が約束されたなら、ますます手は抜けねぇな」
甚右衛門が笑いながらそう言うと、勇は照れくさそうにも満面の笑みを浮かべて頷き返した。
その日の夕方。
軽やかな気持ちで帰宅していた勇は、血相を変えて子供の名前を呼ぶ一人の母親の姿を見つける。
それは以前、勇に遊んでと駆け寄ってきた子供の母親だった。
「一郎! 一郎!」
「どうしたんですか?」
そう声をかけると、女性は駆け寄って来るなり勇の両腕を掴んでくる。
「うちの子を見ませんでしたか!?」
「あ、いえ……今日は見てませんが……」
「あぁ、どこに行ったのかしら……」
髪を振り乱し、不安に爪を噛む女性に勇の表情が一気に硬くなった。
「……いないんですか?」
「えぇ。遊びに行くって言って、いつもの場所かと思ったらどこにもいなくて……」
勇は途端に背筋に寒気が走った。
「一郎くんが他に行きそうなところって分かりますか?」
そう訊ねると、母親は首を横に振るばかり。
混乱し取り乱している姿を見ていると、かつての罪悪感が強制的に呼び起こされる。
「……っ」
勇は咄嗟に空を見上げた。
夕方とはいえ、夏の陽はまだ長い。しかしのんびりはしていられない。
「俺も一緒に探します。日が暮れるまでに見つからなかったら、近隣の方々にも声をかけて、町役場の人にも話を通しておいてください」
勇はそう言い置くと、走って一郎の姿を探し始めた。
心臓が早鐘のように鳴っている。不安や焦燥感、この感情はかつて自分も……。
ぎゅっと強く拳を握りしめた。
「勇さん?」
町の中を探している最中、背後から声を掛けられそちらを振り返ると、お使いの帰りだった小春が驚いたように立っている。
普段見ない勇の狼狽えた様子に、小春は何か大きな問題が起きていると感づいた。
「何かあったの?」
「一郎がいないんだ」
「一郎って……」
「近所で、俺によく懐いてくれてた子なんだけど……」
そう言うと、小春は「あ」と思い出した。
以前喫茶店から見たあの子供。あの子が一郎と呼ばれる子供なのだと察しが付く。
「私も一緒に……」
「駄目だ」
いつになく強い口調で断られた小春が一瞬驚いたように目を開くと、勇はハッとなってぎこちなく顔をそらした。
「もうじき夜になるし、危ないかもしれないから……」
「……勇さん」
小春は苦々しく顔を歪める勇の横顔を見て、なぜそんな顔をするのかと疑問を抱いた。
「じゃあ……暗くなるまでならいいでしょ?」
「なにを……」
「私も一緒に探したい。放っておけないもの」
「あ、小春……っ!」
小春がそう言うと、勇の表情が硬くなった。その勇に気付かず足を踏み出そうとする小春を、勇は止めようとして手を伸ばした……だが、それ以上止められなかった。




