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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
思春期編

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27/58

初めての……

 丘の上は茜色が濃く落ち、ひぐらしの声がより一層はっきりと耳に届き始める。吹いてくる風は少しばかり温度が下がり、ただ静かに立っていると肌寒さを感じさせた。

 小春はぎゅっと自分の腕を抱きしめると、勇はそんな彼女に声をかける。


「そろそろ戻ろう。遅くなると弥七さんたちが心配する……」


 勇は夜が近づいて来る気配に、拳をぎゅっと握った。

 小春がそれに気付き、小さく頷き返すと二人は坂道を下り始めた。


 丘を下れば、潮騒の音が耳に届く。

 砂浜を黙ったまま歩く勇の背を見つめていた小春は、僅かに視線を下げて勇の手を見つめる。

 同じ歳だと言うのに、彼の手はすでに仕事をこなした大人の男性の手になっていた。


 手のひらに出来た豆。固くなった厚い皮膚。指に染み付いた黒い油や煤の跡……。


『俺もいつか、父ちゃんみたいな運転士になるんだ!』


 幼い頃掲げていた彼の夢が、着実に現実向かって進んでいると感じさせる手だった。

 

「……」


 小春は緊張した面持ちで短く息を吸い、僅かに手を持ち上げて、何度かその手に伸ばそうとした。だが、あと一歩と言うところで躊躇い、やがて静かに下ろす。


 ――やっぱり、駄目、だよね……。


 例え自分は良くても、世間は許さないに違いない。

 小春は肩を落とし、小さくため息を吐いた。





 二人が本町通りへ戻って来る頃には、陽はすっかり傾いていた。

 だが、所々の店や家々が戸口を開けている灯りで、いつもより明るくなっている。


「……あれ?」


 ふと脇道に視線を投げていた勇が何かに気付いて足を止める。

 小春はそんな彼の動きに合わせて足を止め、勇の視線を追ってそちらを見ると、植木屋の男性――田中源次郎が提灯の明かりの下で何やら作業をしている姿があった。重たい植木を移動して痛むのか、源次郎は前にかがみ込み腰を叩いている。


 勇がそちらに足を踏み出すと、源次郎は勇に気付いて顔を上げた。


「おや、勇……と、小春お嬢さん」

「こんばんは、源次郎さん。大丈夫ですか?」


 源次郎の前にはたくさんの盆栽が並んでいる。あまり見ない大きさの盆栽もあり、物珍しさがあった。


「いや〜、日が暮れたからな。こいつらを今から中に取り込もうと思ってたんだが……腰が痛くて」

「手伝いましょうか?」

「そうか? 助かるよ」


 勇のさりげない言葉に、助けに舟とはこのことだと有難がる源次郎だった。

 腕まくりをして、ふと勇は小春を振り返る。


「小春は、先に家に帰った方が……」

「う、ううん……。ここにいる」

「でも、弥七さんが……」


 小春は、家に帰そうとする勇を前に焦った様子を見せる。そして手を握りしめて硬く目を閉じ、顔を僅かに俯けた。


「き、今日は、お友達と会うから遅くなるって、もう言ってあるから……」


 初めて、嘘をついた。

 心拍数が上がり、少し呼吸が浅くなる。


「そうか」


 小春の言葉を疑いもせず、そのまま受け止めた勇はそれ以上何も言わず、源次郎の指示のもとで次々と重たい植木から大振りの盆栽まで手際よく片づけ始める。


「……」


 小春はゆっくり息を吐き、じっと勇の動きを見つめていた。その時ふと、小春の視界に他の盆栽よりも二周りほど小さな盆栽を見つける。他の盆栽同様、値札がつけられているその盆栽だが、松のような葉があるわけでもなく、花が咲いているわけでもない。大きめの柔らかそうな緑の葉が付いただけの小さな木が生えたものだった。


「あの、源次郎おじ様」

「ん?」


 小春がその源次郎にその盆栽を指さしながら訊ねた。


「これ、何の盆栽なんですか?」

「あ~、これかぁ。実はあんまり出回ってない盆栽なんでさぁ。これね、珍しい花が咲くんですよ。しかも育てるのが結構難しいんだ」


 両手で持てるくらいの大きさのその盆栽を手に取り、少し得意げに話す源次郎に勇も物珍しさに近づいて来た。


「そんな盆栽あるんですね」

「そうよ。どこにでもあるような物だけじゃ、売れないからなぁ。他の植木屋とはちっと差を付けたものを置いた方が、話題も呼ぶだろう?」


 鼻息荒く話す源次郎に、勇もまた興味津々に盆栽を見つめる。


「珍しい花って、どんな花なんですか?」

「俺も実は一回しか見たことねぇんだけどよ、見た目は……桜だな。ただあんまり見ない形の桜の花だった」

「へぇ……。こんな小さい盆栽の上でも、ちゃんと育てたら咲くんですか。桜とか、なんか小さい春みたいですね」


 勇のその言葉と柔和な笑みに小春の胸が大きく跳ね、息を呑んだ。


 ――小さい、春……。


 間近で見た勇の笑みと、何気ない言葉に小春は自然と顔に集まり出す熱を感じながら、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。


「源次郎さん、これで終わりですか?」

「おお。ありがとうよ、助かった」

「いえ。じゃ、俺たち帰ります」


 勇は全ての盆栽を家の敷地内に置くと、捲り上げていた袖を下ろして源次郎に小さく頭を下げると、そのまま立ち去ろうとした。


「……」


 二歩ほど進んだところで、袖を引っ張られる感覚に気付いて足を止め振り返ると、小春が勇の袖を少しだけつまんでいることに気付く。


「……あ、あの、勇さん」


 小春の顔が僅かに赤らんでいたが、暗がりにハッキリ見て取れない。


「あれ……欲しいって言ったら、困る?」


 小春は視線を僅かに下げたまま、言葉が尻すぼみになりながら遠慮がちにそう言うと、勇は目を瞬いた。


「え……?」

「……っ」


 勇に訊ね返されると、小春は堪らず目を閉じて顔を俯ける。理由が分からず、勇は首を傾げながら後ろ頭を掻いた。


「困るってことは、別にないけど……」


 そう言いながら源次郎を見る。


「買ってくれるんなら、今でも売るぜ?」

「……」


 勇は自分の懐に手を入れ、持っていた財布を取り出した。ちらりと中を見て、先ほどの盆栽の値札を見る。


 ――ちょっと高いけど……ま、いっか。


「じゃあ、それ今買います」


 そう言った瞬間小春は閉じていた瞳を開き、その瞳が揺れていた。


「お、毎度! 手伝ってもらったお礼に、少しまけとくよ!」


 お買い上げと聞き、源次郎は嬉しそうに手を摩り、勇は提示された金額を手渡すと盆栽を手渡された。

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