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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
思春期編

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22/58

持っているもの、いないもの

 数日後。

 この日も朝から照り付ける日差しが、体力を地味に削っていくほど暑かった。

 カラカラと音を立てて玄関の引き戸を開け、茹だる暑さと蝉の声に、勇は目を細める。

 

「ちょっと、出てきます」


 今日は休暇を貰っていた勇は、母に一声かけ書生姿で本町通りに出た。

 通りの中央付近に人垣ができており、建設が始まっている建物の様子を皆が興味津々に覗いている。当然、勇もその一人だった。


「この本町通に温泉か~……」

「大衆温泉なんだってな? 家の風呂釜が壊れた時には助かるよなぁ」

「仕事の終わりにひとっ風呂浴びて帰れるとか、最高だ」


 町の男たちは皆、当然のように外へ出稼ぎに出ている。漁業で海に出ると数日帰ってくることができない者、勇のように煤と油にまみれて汗水流しながら働く者。体を使う仕事を当たり前にこなしている者たちからすれば、有り難い以外ない。


 ――確かに、ここが出来たら助かるよな。


 勇も、建築中の建物を見上げ、ほかの男性たちと同じように考えていた。

 それぞれ家にいる女房からしても、入浴後に自宅の風呂を力を入れて掃除する手間が省けると、喜びの声をあげているくらいだ。


「はい、ちょっと失礼するよ」


 農業用の孤輪車に、建築用の資材を積んだ大工の老人――大西勝三おおにしかつぞうが声をかけると、集まっていた人垣が崩れ、彼を通すための道を開ける。

 それを皮切りに、それまでそこに滞っていた人が少しずつばらけ始め、皆思い思いに語りながら人だかりがなくなっていった。


「勇」


 勇も家へ戻ろうとした時、ふいに斜向かいに住む男性に呼び止められて振り返った。


「あそこの男の人が、お前を呼んでるよ」

「え?」


 男性が向ける視線を追うように、勇がそちらに目を向ける。するとそこには正一が立っていた。

 腕には背広の上着を掛け、半袖の白シャツに灰色のベストとズボン姿の彼は、勇が振り返ったのと同時にかぶっていたパナマ帽子を少しだけ持ち上げ、小さく会釈を返してくる。

 勇の胸が一度、跳ねた。


「……人違いじゃないんですか?」


 戸惑った勇がそう言うと、男性は首を横に振り「いやいや、確かにお前だよ。じゃ、伝えたからな」と言ってその場から離れていってしまった。


「……」


 勇は、通りの反対側に立っている正一を怪訝そうに見つめ、明確な疑問が頭を占める。


 ――……なんで俺?


 小春でなくなぜ自分が呼ばれているのか、理解できない。だが、ここにいても埒が明かないと、勇は正一の近くに歩み寄る。すると正一は柔和な大人の笑みを浮かべて声をかけてきた。


「こんにちは」

「……ど、どうも」


 辿々しく返事を返す勇に対し、正一は表情を崩すことなく手を差し伸べてくる。


「僕は大原正一と申します」

「あ……はい。存じております。こは……浪越お嬢さんと、お付き合いされている方ですよね」


 気後れしながら「小春」と言いそうになった勇は慌てて言い繕い、正一の握手に応じる。握るその手は僅かに固い。


「……」


 握り返した勇の、年の割に厚みのある皮膚の固い手を見つめていた正一は、手元から勇へと視線を上げる。しっかりとした体躯に色良く日に焼けた、いかにも健康的な勇の姿をじっと見つめ、手を離した。


 何やら探られている。勇は正一の視線に嫌悪感を示した。


「あの……、浪越お嬢さんのお迎えにいらっしゃったんですよね?」


 勇が確認するようにそう訊ねると、正一は首を横に振り真っすぐに勇を見つめ返した。


「いえ。今日はあなたにお会いしに来ました」


 ――俺に会いに来た? なんで?


 思わず、じり……と半歩距離を置く。

 それに気付いた正一は、小さく息を吐きながら微笑みかける。


「少し、お話を伺いたいと思いまして……」

「話……? 俺と、ですか?」

「……はい」


 微笑んだまま真っすぐに見つめてくる正一の眼差しには、嫌悪感を抱くが明確な敵意は感じられない。だが、無言の圧は感じられた。


 ――俺は、別に話すことはないんだけど……。


 今まで正一に接触したことはない。何度かすれ違いはしても、それだけで顔が知られていないはず……。いや、少なくとも自分と言う存在がいると言うことぐらいは出ている可能性はある。


 ――なんか、やらかしたっけ?


 理由がわからず、勇の表情は緊張で固くなった。


「良かったら喫茶店でお話をしませんか? ここは少し、暑すぎるので」

「は、はぁ……」


 改まる正一の態度に、勇は怪訝に思いながらも、先を歩く彼について、半歩遅れて歩き出した。

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