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春の残香 〜汽車の窓に、なごりの桜〜  作者: 陰東 紅祢
思春期編

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20/58

温かい世界

「小春さん。活劇はいかがでしたか?」

「はい。とても楽しかったですわ」


 小春はこの日、正一と共に今流行りの活劇を見に高松まで出かけていた。

 西洋の話を取り入れた、日本ではお目にかかることがない文化の違いを見た小春は、興味を持って鑑賞でき、楽しかった。


「少し、休んでいきましょうか」

「はい」


 夕方近いとはいえ、気温はまだそこまで下がっていない。

 駅から米屋までの道のりはさほど遠くはないものの、汽車の旅で疲れているだろうと気に掛けた正一は、一度喫茶店に立ち寄る提案をすると、小春は躊躇いもなく頷き返した。

 本町通の途中にある、小さな喫茶店。小春は何度か足を運んだことのある喫茶店だった。


「お席へご案内いたします」


 給仕の人に窓際の席を案内されると、正一は小春の傍に立ち椅子を引く。


「どうぞ」

「ありがとうござます」


 流れるような動作に淀みはない。小春も慣れたもので、正一のエスコートに笑顔で応え席に座った。

 正一はその後すぐに給仕に「彼女に冷たいオレンジジュースを。僕はアイスコーヒーで」と伝えると、給仕の女性は頭を下げて、奥へと戻っていった。


「今日は本当に楽しかった。小春さん、次はどこへ行きたいですか?」

「色々あり過ぎて、すぐには……」

「そうですか。ではまた、僕の方で予定を立ててもよろしいでしょうか」

「えぇ。お任せいたしますわ。正一さんが連れて行って下さる場所は、どこも楽しいですもの」


 やんわりと微笑むと、正一は嬉しそうに微笑んだ。


 小春は、正一といると安心できた。

 細かな気配りと、守られているという絶対的な安心感。岡山からだと言うのに、マメに訊ねてきてくれる正一に、自分はとても大事にされているのだという実感はある。


 ――彼と一緒になれば、間違いはない。でも……。


 何も心配がいらないはずの小春の心は、満ち足りていなかった。常に何かが欠けているような感覚が拭いきれない。それが、もうずっと続いている。


「……」


 一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。

 小春は視線を伏せたまま。正一はそんな彼女を静かに見つめる。


「お待たせいたしました」


 給仕が飲み物を持ってくると、正一は喉を潤すようにアイスコーヒーに口をつけ、小春もオレンジジュースに口を付けようとして、グラスに刺さっていたストローに手を伸ばした。その瞬間、視界の端に何かを見つけ、手が止まる。


「……」


 小春は、静かに窓の外へと視線を向けた。

 窓の外。日差しがオレンジ色に染まる本通りに、仕事帰りの勇の姿がある。

 煤と油で汚れた袖のないシャツに、首から下げた手拭い。彼の隣には仕事仲間がいて、会話に花が咲いているようだった。


 ――あ……。


 小春は思わず心の中で短く呟く。

 そこにいる勇は、とても自然に、そして楽しそうに笑っていた。その表情に、小春は視線をそらせなくなる。


 ――勇さんが、あんな風に笑うなんて、知らなかった……。


 胸の奥がことり、と鳴る。


「小春さん?」


 ふいに名を呼ばれ、我に返った小春は少し慌てたように正一に視線を移す。


「誰かお知り合いでも?」

「あ……いえ」


 小さく微笑み、一口だけジュースを口に含む。


「次に行く場所ですが、もし小春さんがよろしければ……」


 正一が話を進めていると言うのに、小春は窓の外にいる勇に意識が向いてしまっていた。

 目の前の彼の話に笑顔で相槌を打ちながら、ふとした隙に視線が窓の外へ向いてしまう。


 勇は仕事仲間を別れ、自宅へ戻ろうとしたところで足を止める。しかも、この喫茶店の目の前で。


「勇兄ちゃん! 遊んで!」 


 窓から、子供の声が微かに聞こえてくる。

 勇はその声に応えるように身を屈めると、駆けてきた子供は石に躓いて転びそうになる。勇はその子供を慌てて抱き止めて、また笑う。


「危なかったな、気をつけろよ」

「えへへ。ありがとう兄ちゃん!」


 ハッキリとは聞こえないが、そんな会話が要所要所で耳に入る。

 小春は手にしていたストローを持つ手が止まったまま二人の様子を見つめ、勇が微笑んだ瞬間、僅かに小春の口元も緩んだ。


「……」


 正一はそんな小春に気付くと、彼女の視線を追うようにそっと窓の外へ視線を巡らせた。


 ――あぁ、なるほど……。


 正一は静かに納得をする。


 二人が喫茶店から見ていることに気付かない勇は、子供と少し遊んでいると魚屋で魚を仕入れてきた子供の母親が近づいてくる。


「どこに行ったのかと思ったら……。いつもすみません」

「あ、いや、別に」

「この子、勇さんが大好きみたいで」

「……そうか」


 母親が困ったようにそう言うと、勇は子供の頭を撫で、ふっと目尻を緩め短く笑う。


「じゃ、またな」


 その言葉はやけにハッキリと耳に届き、一瞬小春の息が止まった。


 ――そんなの、言ってくれたことない。


 笑顔で手を振り、背を向けて喫茶店の前を過ぎ去った勇に、小春は静かに視線をもとに戻す。

 汗をかいたグラスの中で、カラリと音を立てて氷が動いた。


「小春さん」

「……はい」

「小春さんは、時折どこか遠くをみていらっしゃる」

「……!」


 正一のその言葉に、小春はドキッとした。

 瞬きを繰り返し、ぎこちなく視線を僅かにそらしながら顔を下げる。


「そ、そうでしょうか……?」

「すみません。責めているわけではないのです。ただ、少し……寂しいな、と」


 恥ずかしそうに僅かに視線を下げる正一に、小春は慌てて視線を上げた。


「も、申し訳ございません。私ったら、正一さんにそんな……」

「いえ。……あ、せっかくの冷たい飲み物がぬるくなってしまいますよ」


 そう言って微笑む正一の優しさに、小春は胸の奥が静かに軋んだのを感じた。

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