珍しいもの
この日は、雨が降っていた。
朝から降り続く雨に、玄関先に出てきた勇は空を見上げる。
近頃雨が続いているのは、そろそろ梅雨入りの時期なのかもしれない。そのせいか、どうにも蒸し暑く、着ている洋服の首回りが少々鬱陶しい。
勇は襟ぐりをぐいっと指で手繰り、胸元に空気を取り込んでため息を吐いた。
「面倒くさいな……」
独りごちて、勇は番傘を開いた。
今日は休日。鉄道の仕事も手習い所もない。
勇は自宅を出ると、真っ直ぐ本町通りを北へ向かって歩き出した。
今日は珍しく友人の家に招かれていた。「珍しいものが手に入ったから見に来い」と、素性を明かさずに、半ば強引に呼び出された。
雨音を耳に受けながら、小物店の近くを通り過ぎようとして、勇は思わず足を止める。
店先のガラス越しには、女性ものの簪やリボン、耳飾りが綺麗に並べられて展示されている。
「……」
勇はその中の、白いリボンを見つめて「小春に似合いそうだ」と思い巡らせる。だが、すぐに我に返り、首を振って足を踏み出した。
――俺が買ったってな……。
内心、苦笑しながら歩いていると、米屋の前で小春が一人立っている姿が見えた。
――またか。
勇は番傘を傾けて自分を見えないものとして、静かに小春の後ろを通り過ぎようとした。
もう隠れるのはやめよう。そもそも、自分が隠れること自体が良く分からない。
そう思っていた。
「お母さん。そろそろ行かないと間に合わないよ」
小春の声を聞き、黙って通り過ぎようとしていた勇は、一瞬番傘を上げそうになる。
今日は正一が来ていない。だから小春は母親と出かけようとしているようだった。
「……」
勇はそのまま黙って小春の後ろを通り過ぎ、本通りから一本道を逸れて友人宅へ向かう。
話しかけても良かった。だが、先日の書けなかった手紙のことを思い出すと、なぜか気恥ずかしくて声をかけられなかった。
通りを進み、勇は一軒の平屋の前で立ち止まった。
表札には「景山」と書かれている。
「ごめんください」
勇が門の前で声をかけると、しばらくして友人の一人が家の中からひょっこりと顔を覗かせた。
「お! 勇! 来たか! こっちこっち」
「……」
友人――景山 清はどこか目を輝かせ、勇を手招きで呼び寄せる。
勇は門をくぐり、友人のいる部屋の前にある縁側までやってくると、番傘を畳んだ。
開けられた障子の先を見れば、以前勇を遊びに誘った他の友人二人の姿がある。
「いや~、勇くん。僕は君を首を長くして待ってたよ」
清は勇の肩に手をまわし、白々しいほど感慨深く目を閉じ、深く何度も頷きながらそう言った。
その表情はいたずらを仕掛ける前の子供のような笑みを湛え、なぜか握手まで求めてくる。
「いや、本っ当に今日はよく来てくれた! 歓迎する!」
「……何だよ」
いつにもない白々しさに、勇の眉間に皺が寄り怪訝な顔を浮かべる。
「ま~いいから。な? ちょっと中入れ」
「……?」
清に招かれ、勇は縁側で草履を脱ぎ部屋の中に入る。同時に、清は部屋の外を素早く見回し、障子を閉じて大急ぎで仲間たちの元へ駆け寄り、勇の肩を上から抑えるようにしながら座らせた。
「……実はな、今から見せるものは、とても貴重で、極秘裏なものだ」
ぐっと声を落とし、意味深に顔を寄せて清が語ると、周りにいた二人の友人も同じように顔を突き合わせ真面目風を装っている。だが、堪えきれないのか三人の誰からともなく口の端が歪みニヤニヤと笑い出していた。
「あ~、これはいわゆる教本。そう、教本だ。我々はこれをあえて教本と呼ぶことにする」
清は勿体ぶったように、しかも手習い所の一郎先生の物真似をしながら言うとほかの二人は堪えきれずに笑い出す。
何が何だかわけがわからない勇は、三人の様子についていけずただ怪訝に見るしかできない。
「……いいか。驚くなよ」
清はさらに声を落としてそう言うと、自分の懐に手を入れる。するとほかの二人は期待に満ち満ちたた顔を更に突き寄せてくるが、勇だけは微動だにしなかった。
「いや、見て驚け! 刮目せよ! これが、俺たちの教本だ!!」
清の懐から勢いよく取り出され、目の前に突きつけられたのは、いわゆる「春画」だった。
それを見た瞬間、二人の友人はどよめき、興奮冷めやらぬ様子を見せる。ただ、勇だけはそれが何なのか理解できず冷静に見ていた。
「……何、それ」
「え!? 嘘だろ? お前知らねぇの!?」
「知らない」
あまりに冷静に返す勇に、一瞬清たちの空気がおかしなものに変わった。
「何だよ、勇はやっぱりお子様だなぁ~」
「どういう意味だよ」
「これはだな、つまり……こういうやつだ!」
一瞬言い淀む清は、ページを開いて突き出してくる。
そこに描かれているものを見るや、友人二人はやや甲高い声を上げながら騒ぎ立てているものの、勇は一瞬息を呑み、僅かに視線を泳がせてそらした。
「ほら、勇、これ! これ見てみ? 凄いだろ?」
「……別に」
「別にって……お前、興味ねぇの?」
「……」
視線をそらしたまま黙り込む勇を見て、清たちは唖然としてしまう。
勇も男子なのだから、自分たちと同じようなノリで騒ぐものだと思っていた。だが、ここまで無反応になるとは思ってはいなかった。
「……お前さ、昔からちょっと違うなって思ったけど、やっぱ違うな」
「どういう事だよ」
ムッとしながら聞き返すと清は深いため息を吐いた。そして開いたままの春画をその場に置き、胡坐をかいて座り直す。
「お前、好きな女とかいねぇの?」
そう問われた瞬間、勇の頭に小春が浮かぶ。しかし、彼女はそう言うんではない、と思った。
だから尚の事、理解ができず僅かに首を捻る。
「……分からない」
「はぁ~? こいつぁ驚いた! 本気で言ってんのか?」
「……いなかったら、悪いのか?」
憮然として聞き返すと、清は「何と言うことだ……」と呟きながら天を仰ぎ、片手で頭を押さえる。
「いいか諸君。我々は今、血気多感な年頃。通常であれば好いた女がいて、こういうことに興味を持つべき年だ! そうだろう!?」
声高らかに、春画を手で数回叩きながら清が言えば、他の二人は「そうだそうだ」と囃し立てる。そんな彼らの中に入っている勇には、これ以上ないほど居心地が悪かった。
清は勢いのまま、一番過激に描かれた春画のページを開き、それを勇の顔の前に近づけた。
「お前、ちゃんと男か!? よく見ろこれを!!」
ぐいぐいと押し付けられ、勇はだんだん腹が立ってきた。これ以上この話に付き合わされるなら……と、勇は無言でその場に立ち上がる。
「帰る」
「え、おい、待てって! ただの冗談だろ?」
「……別に、興味ねぇし」
背後から飛んでくる言葉に、勇は振り返らず障子を開くと、来る時よりも雨脚が強まっていた。
バラバラと屋根瓦を叩く音を聞きながら、勇は草履を履いて番傘を掴んで家を後にする。
清の家を出て、足早に家路へ戻る勇は眉間に深い皺を刻んだ。
――何だよ、あれ。
別に怒っているわけではない。
ただ、勇にはとても不愉快だった。いや、不愉快と言うよりも、何か引っかかって仕方がなかった。
突然見せられた春画に、盛り上がる友人たち。そして……。
『好きな女とかいねぇのかよ?』
清の言葉が蘇る。途端に、勇の歩調が緩む。
あの時一瞬頭を掠めた小春の姿に、勇は番傘の柄を掴んでいる手に僅かに力が入った。
「……そんなんじゃ、ない」
彼女はそんなんじゃない。
繰り返し、勇は心の中で呟いた。




