本当は
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
土間から靴を脱いで上がり、障子を一度開いて居間にいた両親に声をかける。キヨの言葉に答えて、自分の部屋へ向かおうとすると、弥七に呼び止められた。
「小春。ちょっといいかい?」
「……はい」
障子を閉めかけて手を止めた小春は静かに中に入ると、二人の前に座る。
煙草を吸っている父と、その隣にいる母の様子を見れば、何が言いたいのかすでに読み取れた。
「正一くんとは、どうなんだ?」
「どうって……」
「順調か?」
煙草の灰を落としながら訊ねる弥七の言葉に、小春は一瞬詰まってしまった。
聞かれる質問は分かっていた。二人は分かっているのに直接口から聞きたがっている……。
小春は二人の顔を見る。弥七も、その隣に座っているキヨの瞳も、確信しているような期待の眼差しだった。
「はい。正一さんはとても優しくて、細かな気配りのできる方で……」
小春は膝の上に置いていた手を一度ぎゅっと握り締める。
「とても……安心、できる方です」
間違ったことは言っていない。ありのままを伝えたのに小春の胸はズキリと痛み、握る手にさらに力が籠った、
「そうか、そうだろうな。何といってもあの大原さまのご子息だ」
弥七は満足そうに、完全に正一を信用したように何度も頷いている。その隣ではキヨがどこかソワソワしながら、若干身を乗り出し気味に声をかけてくる。
「結婚のお話も、もう出ているんでしょう?」
「……少し、前に」
強い期待を込めたキヨの眼差しに耐えられず、僅かに視線をそらしながらそう答えると、キヨは「やっぱり!」と小さく叫び、歓喜の声を上げた。
正一との話が上がったのは、弥七の仕事の伝手だ。お見合い同然に引き合わされた十歳の時。
あれから正一は頻繁に自宅を訪ねてくるようになり、幼く、何も知らなかった当時は、正一を兄のように慕った記憶がある。
――でも……。
小春は自分の中に抱える矛盾に視線が僅かに曇った。
「それが聞けて安心した。明日からまた女学校へ戻るんだろう?」
「はい」
「正一くんにも、よろしく伝えておいてくれ」
小春は静かに立ち上がると居間を後にする。
自室の部屋の障子を開けると、中にはたくさんの箱や紙袋が積みあがっている。どれも、正一が贈ってきたものばかりだ。
「……」
小春は姿見の前に立ち、今の自分の姿を映す。
綺麗に着飾ったお嬢様がそこにはいた。耳隠しと呼ばれる髪型に、良く映えるワンピース。
身なりは今時で、綺麗と総称するのにピッタリだと言うのに、それを身に着けている自分はどうだ。多くの矛盾と、もう分かっているはずなのにそれを言葉にすることができず、内心は目も当てられない。
「……だって、もし壊れたら」
小春は寂し気に視線を下げる。
『何か、凄く、お似合いだった』
『ああいう人の方が安心できるよな』
別れ際に言われた勇の言葉が頭の中に蘇り、小春はぎゅっと拳を握りしめた。
「あんなこと、言って欲しくなかったよ……」
誰にも聞こえない小さな声で、小春は寂しそうに呟いた。
翌朝。
小春は機関車に乗って丸亀の女学校へと戻って行き、勇は書生の服を纏い、いつものように手習い所へ向かった。
いつも座る席に着き、持っていた紙を広げ鉛筆を手にして、文字を書こうとして手を止める。
昨日の小春の顔が頭をチラついて離れない。そして、正一と楽しそうに微笑んでいる小春の姿も。
「……」
勇は鉛筆を握っている手に力が籠り、眉間に深い皺を刻む。
――なんだよ、楽しそうにして……。
俄然、面白くない。
今、こうしている間にも二人はもしかしたら親睦を深めているのかもしれない。そう思うと腹が立った。だがその反面、自分の中で力が抜けていく感覚も覚える。
――俺……あの人に勝てるところ、ないな。
自分はただの下町の男で、取柄らしい取柄もない。できるのは、父のような男になることを目指して勉学に励み、鉄道に携わる仕事をすると言う夢に向かうことだ。
勇は何気なく窓の外へ視線を投げると、通りの反対側に掲示板が見えた。そして、そこには活版印刷された掲示物が貼られている。
『想いを文字にしてみませんか?』
何かの広告なのだろう。そんな文字が通りを挟んだ場所から見る勇にも読めた。
「……」
勇は窓の外から自分の手元に視線を移し、無言で紙を見つめた。そして、静かに鉛筆を走らせる。
――小春へ……
そこまで書いて、ぴたりと手を止めた。




