約束未満
全身煤まみれになりながら仕事を終えた勇は、手拭いで汗と煤を拭い去る。
かつて、仕事から帰ってくる勘助からしていたニオイが、今は自分からしている。そのことは嬉しく思った。
いつか、父のようになりたい。
その想いは今も変わらず勇の中に根強く残っている。だからこそ、今この場所に居られることが勇にとって自信の一つになっている。
「勇、上手くいったか?」
別の場所の整備に当たっていた勘助が戻ってくるとそう訊ねてくる。
「はい。お師匠さんにも見てもらって、大丈夫だと言って貰えました」
「そうか」
自信に満ちた返事に、勘助も満足そうに頷いて勇の背中をぽんと軽く叩いた。
「一日かけての作業、お疲れさん。ほら、これは今日の駄賃だ」
にっこりと笑いながら差し出した小袋を受け取りながら、勇は照れたように笑みを浮かべた。
こうして仕事の手伝いをして貰える駄賃は微々たるものだが、今は使い道のないその駄賃を勇はずっと貯め込んでいる。今回もそのまま貯金箱に入る予定だった。
「勇。父ちゃんはまだやらなきゃならないことがあるから、お前は先に家に帰って、母ちゃんに伝えておいてくれ」
「はい。分かりました」
勇はそう言うと、手拭いを首にかけ駄賃をポケットにしまい込み、空になった水筒を持って家路に着く。
本通りに差し掛かり、何気なく見上げた空は茜色を差し、カラスが寝床に戻る様子が見える。その空の色を見て、勇は思わず足を止めた。
――昨日見た、あの夕日と同じ色だ。
昨日、小春と見た夕日の色を思い出す。
今までゆっくり夕日を見ることはなかった。そんな余裕を持ってなかった。
ただひたすら、自分の夢に齧りつくことに必死で、そうすることで日々の物足りなさから気を紛らわせようとしていたから……。
「それじゃあ、小春さん。また……」
ふと、背後の道の先で正一の声が聞こえてくる。
勇は驚いて慌てて辺りを見回し、近くの家と家の隙間に逃げ込んだ。
――だから、何で俺が……。
一度ならず二度までも、二人の目から逃げるように隠れようとする自分に呆れてしまう。だが、ほぼ条件反射のようなものだった。
そっと顔を覗かせると、正一が歩いて行くる姿が見える。彼が通りの向こうの人込みに紛れていなくなったのを確認してから、勇はため息を一つ吐き表に出てきた。
「……」
「勇さん?」
正一が立ち去った先を見ていると、思いがけず声を掛けられた勇は、ビクッと肩を震わせ後ろを振り返った。そこには、目を瞬いている小春の姿がある。
「あ……小春……」
「……お仕事の、帰り?」
お互いに微妙な気まずさを感じてしまう。
勇は視線を泳がせ、小春も同じように視線を下げて後ろ手に手を組み、二人の間には不思議な沈黙が落ちた。
「お、俺は、別に覗いてなんか……」
この沈黙に耐え切れず、勇は着ている服を掴んで、やや早口で言い訳をする。
突然のその言い訳に、小春は驚いて顔を上げた。
「え?」
「……あ、いや」
余計なことを言うんじゃなかった、と、ますます気まずさが生まれる。
これではまるで「覗いていました」と自ら暴露したようなものだ。そう思うと、顔をそらした勇の顔に熱が集まる。
小春もつられて顔に僅かな熱が集まり、再び顔を俯かせて口をつぐんだ。
お互いに黙り込んでしまうが、勇は横目で小春の様子を窺い、綺麗に着飾ったその姿を改めて見た途端、胸の奥にモヤモヤとしたものが生まれ、面白くなくなる。
「あの人……良く会いに来るんだってな」
「え?」
顔を背けたまま、勇は憮然とした顔で、ポツリと呟く。
「……何か、凄く、お似合いだったなって」
「……!」
小春はその言葉に、思わず眉根が寄る。
そんな小春の様子に気付かない勇は、彼女から視線をそらしたまま呟く。
「ま、まあ、ああ言う人の方がちゃんとしてるし、安心だよな」
「……」
小春は眉根を寄せたまま、瞳を閉じる。
後手に組んでいた手を離し、その手を胸元に引き寄せ、キュッと口を引き結ぶ。
「……どうでも、いいんだね。勇さんは」
「え?」
この瞬間、二人の間の空気が変わった。その理由が分からないまま、勇は彼女を振り返る。
伏せていた顔を上げた小春は、小さく息を吸い、視線を上げていつものように笑って見せた。
「……何でもない」
「こは……」
「私、明日は女学校に戻らなきゃいけないから、もう帰るね」
勇の言葉にかぶせるようにそう言うと、小春は家に戻ろうとして背を向ける。
「小春」
だが、勇にすぐに呼び止められ、小春はぴくりと肩を震わせて足を止めた。
――もしかして……。
小春の胸が小さく鳴った。
「その……。また、帰ってくるのか?」
「……うん」
小春は、僅かに肩から力を抜いて小さく頷くと、そのまま家へ入っていった。




