見たくないもの
翌日。
手習い所も休みになり、勇はいつものように機関車整備の為の洋服に袖を通す。
油が染みた紺色の作業服を着て、足袋を履いてゲートルを巻き、軍手と職工帽子を身に着け、勘助と共に駅に向かおうとしていた。
「水筒、忘れるなよ」
「はい」
勇は水筒を手に取り、玄関を開く。するとそこへ、一葉が慌てたように駆けよってくる。
「ほら。忘れ物」
そう言って手渡して来たのは、二人分の手拭いだった。
「ありがとう。母さん」
「頑張ってね」
一葉はニッコリと微笑み、「美味しい昼ご飯、作っておくわね」と送り出した。
本町通りを駅に向かいながら、勘助は今日の作業の確認をする。
「今日お前にやってもらうのは、機関車の心臓部でもあるボイラーの点検作業だ。よく見て学べよ」
「はい!」
勇が元気よく答えると、勘助も満足そうに頷いた。
「お。ありゃ小春お嬢さんじゃないか?」
ふと、勘助が道の先にいる小春を見つけ、足を止める。その言葉に勇の胸が一瞬跳ね、小春へと視線を巡らせた。
昨日とは違う、白いワンピースを着た小春は、下ろしていた髪も綺麗に纏め、大きいツバのついた帽子をかぶっている。
店の前で誰かを待っていた小春の元へ現れたのは、しっかりとした背広を着込んだ青年だった。
「!」
勇は咄嗟に、勘助の影に隠れる。
――何で俺が隠れなきゃいけないんだ?
自分で無意識に取った行動なのに、理解ができない。それでも、勘助の影から小春たちの様子を伺い見ると、二人はお互い顔を見合わせて微笑み合っている姿が見えた。ふと青年が何かに気付き、覗き込むように顔を近づけて小春の帽子の位置を直す。瞬間、彼女は僅かに動きを止め、何事かを話しながら柔和な笑みを浮かべて離れる青年に対し、恥ずかしそうに笑った。
「……っ」
――あんなの、知らない。
胸がやけに痛む。
胸元の服を掴み、顔を顰めて伏せる勇に、勘助は静かに口を開く。
「……すっかり、本物のお嬢さんになったんだな」
「……」
昔を懐かしむような口振りに、勇は何も言えなかった。
小春は青年の差し出した腕を躊躇いもなく取ると、二人寄り添って人混みに消えていく。
その二人の背を見送りながら、勇は勘助に訊ねる。
「……父さん。あの男の人のこと、知ってるんですか?」
「ん? あぁ。確か、岡山では名のある銘家の息子さんで、大原正一と言うらしい」
「……」
やはり、と、勇は思った。
以前見かけた彼は、昔と変わらない紳士的な対応を持ったまま、すっかり大人の男性らしくなっていた。勇には持てない背広を着慣らし、立ち振舞は完璧で無駄がない。
――そりゃ、俺なんかより……。
そう考えて、勇は言葉を呑み込む。
俺なんかより、何だと言うのだろう。ふと心の中で呟いた自分の言葉が分からない。
黙り込んだ勇に、勘助は複雑な表情を浮かべ、彼の頭に手を置く。
「……じゃ、行くか。今日は忙しいぞ」
「……はい」
先を行く勘助の後ろについて歩きながら、勇はずっと携わりたかったボイラーの点検作業のことを考えた。……いや、考えようと必死になっていた。
ミスはできない。小さなミスが大事故に繋がる可能性がある重要な仕事だ。
しかし、小春と正一の仲睦まじい様子が、頭の中から離れない。油断すると、二人のことを考えてしまう。
――あの二人、どこへ行ったんだろう?
駅に向かう道を曲がろうとして、勇は二人が歩いて行った方向へ自然と視線を送っていた。




