ローマ人への手紙2
「理由?その考え方はとても危険なものだな。」
師匠の目つきが鋭くなる。
「お前は子供だから知らないと思うが説明のつかない現象が世の中で起きると、
どこからともなくそれをもっともらしく説明する輩が出現するものなんだ。
特に不幸な出来事に直面した人はそこに理由を欲しがるものだから、そんな神託まがいのものに惹かれる時がある。」
憎々しげな表情を浮かべながら師匠は続ける。
「お前はあの男の出現になにか特別な物語を見出しているのかもしれないがこの世にそんなものはない。
全てがただの偶然で、良いことも悪いこともそこにあるだけ。
その背に神なんていないし、それらを線で結ぶようなことをしてはいけない。」
師匠は今日の仕事を切り上げることにしたのか道具の片付けを始めた。
「精算の日を迎えるまでウルク。アリスやくだんの男とお前は接触をしてはいけない。
今の未熟な精神状態では情があちらに移って、何かとんでもない行動をとりそうだ。」
その忠告はあまりにも遅きに失するものであった。
「大丈夫です。そんなことはやりません。」
もう師匠の顔を一秒だって直視することが出来ない。
その時の顔がよほど悲惨なものだったのだろう。師匠は気を効かせて話題を変えてくれた。
「そう言えばお前がワシのもとに来てからそろそろ二年くらい経つんじゃないのか?」
「はい。あと三か月でまる二年になります。」
「早いもんだな。あと一年で一人前になるのだから。」
「同感です。
と言ってもボクなんて師匠がやっている仕事の半分もまだ身に付いてはいませんが…」
「そんなことはない。
確かにこの街での仕事は少し特殊な部分もあるから苦戦をしているのだろうが、
一介の書記官としての能力に限定すれば、既にお前はそれを習得しているよ。」
師匠はお世辞を言うタイプでは明らかにないので、それは本心による言葉だったのだろう。
だから自分は顔をすこし紅潮させて「ありがとうございます」とお礼を返した。
「親御さんとの関係はどうなんだ?
学校に通っている期間も含めるともう何年も会っていないんじゃないのか?」
「そうですね。最後に会ってから五年経ちました。」
学校を卒業したタイミングで里帰りする時間はあったのだが、特別会う理由もないなと感じてその機会を見送ったのだ。
それでとくに今まで寂しい気持ちも感じてはいなかったのだが、五年という数字を聞くと心が少しそわそわしてしまう。
「それはよくないな。
どうだ久々に会いに行ってみるのは?」
「でも仕事が沢山ありますし。」
「清算日のあとならいくらでも都合がつくだろう。
ワシだって協力する。」
「ほ、本当ですか?」
確かにその時期なら仕事にもいくらか暇が生まれる。
師匠もせっかくこう言っているのだし帰省するのも悪くない気がしてきた。
「金についても心配しなくていい。
旅費なら全額ワシが出そう。」
「そんな悪いですよ。特別に給金まで貰っている立場なのに。」
もっとも自分はある事情で今は一文無しなので、里帰りするならその申し出に頼る必要がある。
「気にしなくていい。
その頃にならワシにも大金が入る予定があるからな。」
きっとその言葉も本心からくるものだったのだろう。
冗談でもなく、悪意に塗れたわけでもない。つい口からこぼれた本音。
だからこそ自分にはそれがひどく残酷なものに聞こえて、さっーと全ての感情が心の奥に退いていくのを強く感じた。
「もうあがるからこの話、自分でも考えておいてくれ。」
まとめた荷物を両手に抱えて師匠が立ち上がる。
「そのキャラバンの台帳は家に持って帰っていいからよく勉強してみるといい。
現実というものが理解できるからな。」
帰りしなそう言い残すと師匠は自分の家に帰宅してしまった。
「お金が入る予定か。」
誰もいなくなった部屋でぽつりとつぶやく。
視線の先には壁一面を埋めるほどのたくさんの本が並んでいた。
山田さんが欲しがっているものは右から二番目の棚に所蔵されているはずだ。
さて、これから自分はどうすればいいのだろうか?
師匠が渡そうとしているお金を自分は絶対に受け取ってはいけない。
それだけは分かる。けどそれなら次に何をすればいいのかが分からない。
山田さんに頼まれたように帳簿を盗めばいいのだろうか?
でもそれは今までお世話になった師匠のことを裏切ることになる。
一層自分にはリスクが高すぎるからと、この企みから抜け出してしまおうか。
その場合山田さんとの関係は解消されるが平穏な日常にまた戻ることが出来る。
夢を叶えるチャンスを一つ失うけれど、その夢だって実はすごくあやふやもので、その価値はすごく今揺らいでいる。
そもそもどうして自分はあんな考えを抱いたのだろうか?
街を発展させて私腹を肥やすため?
だとしたらそれはあまりにも遠回りな気がする。
賢い生き方とはなんなのか?
そもそもどうして自分は彼と出会ってしまったのか?
もしも面識がなければ、もしも会話を交わしていなければ、こんなにも悩む必要はなかった。
師匠は運命という言葉を嫌う人だが、偶然でもこうなってしまってはもう遅い。
心に働きかけてきた不思議な力も中途半端なことをしてくれた。
どうせならそのまま操り人形みたく、自分を好きに動かしてくれたらいいのに。
「これを押しつけてきた理由が今なら分かるな。」
胸元から鍵開けの道具を取り出して、手のひらの上に載せてそれをじっと見る。
あの傭兵は自分が盗みに躊躇することを想定していたのだろう。
「頼まれた仕事をやり遂げろ」と、見ているこっちがこのガラクタに見張られているようだ。
少年はその夜罪を犯した。




