第六回 名無しの店
店の名はわからない。
看板は何もなかった。唯一、扉の取っ手に『やってます』の札がぶら下がっていた。丸い窓の赤い扉は、古い映画の船を思い起こさせる。船舶をイメージした造りなのかもしれない。漁港は既に暗くて、市場や漁船がかろうじてわかるくらいだ。辺りには開いている店などなかった。
取っ手の札が、おいでおいでするかのように揺れている。
吸い寄せられるように店に近づいた。
扉を開ける時は必ず緊張してしまう。開けた瞬間から、人生が変わってしまうかもしれない。良いのか悪いのか、開けただけではわからない。一歩進んでからが勝負なのだ。体が震える。
人生は常に白か黒の二択だ。いっそ悪くなってしまえ。
「いらっしゃい」
四、五人入ればいっぱいになりそうな、木のカウンターしかない、小さなバーだ。わたしと、さほど歳が変わらなさそうなマスターがいるだけで客は一人もいない。
「お姉さん、美人だね」
慌てて左ほほに手をやった。田舎の港町の二度と来ないであろう店で、古傷を隠したって意味ない。頭でわかっていても長年の習性は変わらない。
左ほほに垂らしている髪を、撫で付けながらカウンターの上のグラスに目を止めた。花がなく緑だけしか入っていない。なんだか華のないわたしみたいで嫌な気分だった。
「東京から? そうだよね、きれいだもん」
マスターに品定めされているようだ。
わたしは美人だ。知ってる。傷さえなければ十人中十人が振り返る。傷があっても美人ですねと言ってくれる人もいるが、傷跡を気にする人が大半だ。マスターはどちらの人間だろうか。





