第8話 月に一度の客
シャロウが研究棟へ来て、五日目の朝。
食堂では、有紗と紫音の向かいで、シャロウが朝食のスープを飲んでいた。
最初の朝とは違い、もう誰も、彼がそこにいることを不自然には思っていない。
「今日は、旧排水路の奥を確認します」
紫音が食後のお茶を飲みながら告げる。
「昨日も見ただろ」
「昨日確認したのは、外壁側から三つ目の分岐までです。その先に崩落箇所があります」
「獣の痕跡はなかった」
「あなたが見落としていないという保証はありません」
「お前よりは当てになる」
「……聞き捨てなりませんね」
「朝から喧嘩しないで」
有紗が困ったように二人を見た。
その時、玄関の鈴が鳴った。
「あら、お早いですね」
リネットは、誰が来たのか分かっているように食堂を出ていく。
「焼き菓子は、まだ冷ましているところですよ」
廊下へ向かって付け加えると、近づいていた足音が一度止まった。
「焼き菓子のために早く来たわけではない」
平坦な声が返ってくる。
間もなく、食堂へ小柄な少女が入ってきた。
長い銀髪に、紫色の瞳。
白と淡紫を基調とした大きな研究用外套をまとい、頭には猫の耳を模したフードを被っている。首には丸いレンズのゴーグルを下げ、腰には色の異なる液体を収めた小さな試験管が並んでいた。
片腕には分厚い記録端末を抱え、もう片方の手で大きな器具箱を提げている。
「シンシア!」
有紗の顔が明るくなった。
「今日は早かったんだね」
「予定より二時間早く着いた」
「それは、予定を守っていないということでは?」
紫音が言う。
「到着した時刻が、今日の正しい予定」
「勝手に予定を書き換えないでください」
シンシアは紫音の言葉を聞き流し、食卓へ視線を移した。
シャロウを見つけると、足を止める。
「知らない人がいる」
「こっちの台詞だ」
シャロウもスープの匙を止め、シンシアを見た。
「……誰だ、このガキ」
シンシアの紫色の瞳が、すっと細くなった。
「ガキじゃない」
先ほどまで平坦だった声が、明らかに低くなる。
「外見だけを根拠に年齢を推定するのは不正確。私は子供ではないし、初対面の相手から幼児と同等の呼称を用いられる理由もない。訂正して」
予想以上の勢いに押され、シャロウが僅かに身を引いた。
「……悪かったよ」
「訂正して」
「ガキじゃ……ないです」
「よろしい」
シンシアは短く頷いた。
シャロウは、自分がなぜ敬語を使ったのか分からないような顔をしたあと、改めて彼女を見た。
「ところで、お前、いったい何歳なんだよ」
「十九歳」
「…………は?」
「有紗より一つ上」
シャロウはシンシアを見たあと、隣にいる有紗へ視線を移した。
「嘘だろ」
「本当だよ」
有紗が頷く。
「シンシアの方がお姉さんなの」
「……見えねえ」
シンシアの目が、再び細くなった。
「だから、外見だけで年齢を推定するのは不正確」
「悪かったって」
「二回目」
「……本当に悪かった」
有紗は二人のやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
「シンシアは紫音くんと同じ研究者なの。月に一度、私の魔力を測りに来てくれるんだよ」
「同じではない」
シンシアが即座に訂正した。
「研究しているものが違う」
「へえ。研究って言っても、色々あるんだな」
シャロウは何気なく相槌を打った。
「ある。紫音の研究は、魔力構造と既存術式の解析、安定化、運用効率の向上。すでに存在するものを、より正確に扱うための研究」
「その説明には、やや悪意を感じますね」
「事実」
シンシアは気にせず続ける。
「一方、私の研究は、まだ定義すら確立されていない記憶情報の質量化。記憶の再生時には、呼吸数、心拍、筋緊張、体温、魔力循環速度が同時に変動する。特定の感情を伴う記憶ほど変化量が大きく、反復して想起された記憶は魔力経路にも残留傾向を示す。つまり記憶は情報として保存されるだけではなく、身体と魔力に継続的な負荷を与えている可能性が高い」
「……もういい。飯が冷める」
シャロウはスープの匙を取り直した。
「かなり省いた」
匙が、再び止まる。
「……あれでかよ」
シンシアは答えず、改めてシャロウを観察した。
乱れた黒髪。腰に差した剣。初対面の相手へ向けられた、警戒心の強い目。
次に紫音を見る。
「珍しいな」
「何がです?」
「紫音が、剣を持った素性の分からない男を研究棟に入れている」
「旧排水路の封鎖が終わるまで、一時的に滞在しているだけです」
「食事は一日三回?」
「ああ」
「部屋もある?」
「客室だ」
「鍵は持っている?」
シャロウが黙る。
シンシアは小さく頷いた。
「理解した。半分、住んでいる」
「住んでねえ」
「そのうち完全に住むかもしれない」
「住まねえよ」
「未来は未確定」
「勝手に決めんな」




